No.693 未来はあるか の2(たぶん続く)

 6月19日に県を跨ぐ往来が解禁され、休業・自粛要請も全て解除となり、人々の動きが活発になった。7月に入ると、街はますます通常に戻っていった。幼稚園もほぼ通常の通園状態、園バスの運行も再開した。
 様々な事柄が元に戻っていくときに、いちばん心配したことは家庭が崩壊していないか、自殺者が増えないか、これまで感染症の陰に隠されていたことが一気に吹き出してくるのではないかということだった。
 幸い、関係する施設でそういう問題は浮上しなかった。ただこれは「今のところ」と言うほかない。皆、過度なストレス状態に置かれていたし、そんなストレス状況は今も続いているのだから。
 そして問題は思わぬ展開を迎える。東京で感染者が増大し始めたのだ。都が発表している「新規患者に関する報告件数の推移」グラフを見ると、今がちょうど第二波の入口のような図形。「第二波に備える」というのであれば対策をとるのは今がタイムリミットと思われる。
 だけど東京都知事は「「夜の街」に出かけないで」としか言わないし、国の大臣に至っては記者会見で逆ギレし「感染症対策を個人でもっとしっかりやれ」と。どちらも第二波に備える対策は「自己責任ね」と言っているのと同じ。「都も国も責任は負いません」と。
 もちろんこんなことは今まで誰も経験したことがなかったのだ。目に見えないモノの恐怖は別にこれまでもあった。だけどそれはつねにどこか他所で起こっていたことだった。「大変だね」とは言ってきたが、大変なのはいつも「他の誰か」だった。だから今目の前で起こっていることを記憶にとどめ、記録を残しておく必要がある。ひとつの出来事はたくさんの違った目で記憶され残される必要がある。
 そしてそれでもわたしたちは生き続けてゆくのだ。未来を思い描きながら。

No.692 未来はあるか の1(たぶん続く)

あれは一体なんだったのだろう…

 新型コロナウィルス、東京は3日連続で40人を上回ったという(26日現在)。だが経済優先に舵を切って以来、以前はあれほど深刻に自粛を呼びかけていた東京都知事がウソのように「数が多いのは検査数が増えたから」「医療体制は充実している」として特段の配慮を言わなくなった。都庁やレインボーブリッジを再び赤く染める気はさらさらなさそう。
 だけど、結局わたしたちには本当のところは分からない。細い細いチャンネルで現状を把握しようとするなら「陽性率」だけかな、見えてくるのは。検査を受けた数を母数とし陽性が出た数を子数とすると、現罹患者の全体数は分からなくても大凡どれくらい蔓延しているのかがぼんやり分かるわけだ。
 役所というのは「数字」が好きだと思っていた。小さな幼稚園にも幾ばくかの「補助金」というモノが降りてくるが、闇雲に下さるなんてことはなくて、5月1日時点の園児数や教職員数、うち免許保持者の数…等々実に細かく数字を出させられる。まぁそうやって実態を確認した上でなければ税金をまわせないという慎重さは、事務手数に目をつぶりさえすれば理解できる。だがこれがひとたび「国」レベルになると、あっという間に何もかもどんぶり勘定になるのは何故だろう。統計も適当だったと言うし、記録もとらないし、都合の悪い記述は好き放題改変できるらしい。何がどうなっているのか。
 現状を正しく把握しないままで立てられる対策などない。もちろん「現状把握」ということひとつとってもバイアスはかかる。数字は単なる数字であって、それを「どう」読むかが重要なのだから、読み手の思惑が入り込む余地は十分にある。でも数字がでたらめだったり適当だったりしたらバイアスどころの話ではない。単に不安だけを拡散することになる。そしてそのウラで何かこそこそやるんだろうなぁ。
 と、そんなことだとしか思えないこの国に、未来はあるのだろうか。

No.691 国会終わって


無意味な記者会見 毎日新聞より

 国会が閉会した。記者から「前法務大臣とその連れ合いが現職議員として逮捕されたこと」について追求されると、「任命責任を痛感している」と──もう何度同じ言葉を吐いただろうか、この人は──宣う。コロナ禍での閉会について聞かれると「閉会中でも求められれば、政府として説明責任を果たしていきます」と──もう何度同じ言葉を吐いただろうか、この人は──。
 「丁寧な対応」とか「責任を痛感」とか「責任を果たす」とか「説明をする」とか、文字に書けば分かるが、全部動詞。動詞とは本来動作・作用・存在を表すものだ。だが、このかたの言葉には動作も作用も──ひょっとしたら存在すらも──無いし感じない。だから緊迫性も共感性も持てない。
 例えば「丁寧な説明をする」と言われたら、わかりやすい言葉を使って相手が理解できるように語ってくれることを期待するだろう。だが官邸が語るのは「その指摘はあたらない」とか「全く問題がない」という言葉だけ。これをもって「丁寧」とは言い難い。
 「責任」は確かに感じるものだ。だが、責任を感じた者は次に何らかの行動をとる。「余人を持って代えがたい」とか「適材適所」とか言って任命したが、どうやらそうではなかったとしたら、それこそ丁寧な説明をもって次の人を選び直すか、そもそも「自分には人を見る目がないから」と、任命権を手放す──つまり職を辞する──だろう。だがそれももちろんない。
 一方でやたらと自慢話はする。補正予算成立で「空前絶後の規模、世界最大の対策」とは言うが、手続きが止まっている持続化給付金、未だ来ない10万円、やっと届き始めたらしいマスク等々の実態に対しては、丁寧に説明もしないし、責任は自治体や官僚に丸投げ。
 もはや転がるだけ転がった感じ。だけど選挙権をみすみす手放す者が5〜60%もいては、転がりかたが更に加速するだけだな。どうよ、都知事選?

No.690 楽しい時間を過ごしてきた

「事件は現場で…」By青島

 戸塚にある日本バプテスト神学校で「実践神学Ⅱ」という連続講座の一コマをいただき、お話をしてきた。
 「バプテスト神学校」は日本バプテスト同盟の学校。当然ながら集まっている学生たちはバプテスト教会から送り出され、遣わされていく先もほとんどバプテスト同盟の教会。
 バプテスト同盟は、川崎教会も所属する日本基督教団新生会と最も近い関係がある。わたしが川崎教会に赴任する前から、川崎教会のクリスマス献金送付先に「バプテスト神学校」があった。それだけ実際にも関わりがあったという証拠だ。ただ、わたしにとっては「献金を送る先」という認識しかなかった。伺うにもとっかかりがなかった。ところが昨年、新生会教師会を川崎で引き受けるにあたって、これをチャンスとばかり新生会として公式にバプテスト神学校を表敬訪問した。以後、様々お誘いいただく度に出かけては関係を深め、ついに神学校の授業に講師として出かけることになったのだった。
 わたしは日本基督教団、それも狭い奥羽教区という範囲で育ち、漸く20年ほどを西中国と神奈川で従事しているだけだ。合同教会で育ち、合同教会で働いているということが、単一教派神学校で学ぶ学生たちにプラスになるのかどうかは分からなかったが、それでも経験を話す以外に語る言葉はない。
 準備を進め、実際に話してみて、改めて浮き彫りになったことがある。教派の違いはもちろん神学的観点での違いではあるのだろうが、実際問題としては「作法」の違いにしか過ぎないことが大多数だということ。そして教会で牧師として立つということに教派による違いなど無いということ。あるのは置かれている場。そして、その「場」にどれだけ共感性を保ちながら立ち続けるかが、問われることの全てだ、ということ。
 「事件は現場で起こっている」。踊る大走査線の名言が頭の中を駆け巡った。

No.689 重苦しい空気

 6月に入って、いろいろなことが元に戻ったように再起動し始めた。とは言え、恐怖が完全に去ったわけではないから、なんだか恐る恐るではあるが。
 3・11の後、川崎でもあちこちで「節電」が叫ばれるようになった。外灯は暗くなり、エスカレーターなども早めに運転が終了した。教会の建っている場所は計画停電もほぼなかったが、幼稚園の教職員が住む地域では頻繁に行われたところもあったようだ。だが、いつの間にか通常に戻った。戻るまでどれくらいかかったかは覚えていないが、意識の上ではあっという間に戻ったような気がしている。
 目に見えない放射線のために、川崎を離れた人もいた。ごく少数ではあった。そして幼稚園の通路から基準を超える放射線が測定され、それが川崎市のホームページに掲載されたりもした。一時確かに大騒ぎではあった。だけど今、少なくとも川崎で生活する上で、放射線量とか無駄な電力の使い方がそんなに気にはならなくなった。
 同じように目には見えない、そして確率からすれば放射線よりも遙かに小さい値でしかないコロナウィルスへの対応が、なんだか3・11より厳重であるのが東北人としては引っかかる。雑駁な知識の感覚から言えば、「それは都市部を襲撃したからではないのか」というのが正直な感想。
 コロナの影響を最も強く受けるのは、人の多すぎる都市部だ。もちろんクラスターは都市部ではないところでも発生した。だがそれは一時的な過密によるものでしかない。そういった例外を除けば、首都圏とか関西圏とか、とにかくやたらと人の多い地域が狙われている。それでも都市部で暮らすことを簡単には止められまい。となれば発生が確率的にどんなに少なくても、近似値ゼロならなければこの恐怖は止められないし、恐怖を抱えたままで擬似通常に戻らざるを得ない。それが今充満している空気。重っ苦しい。

No.688 閑話休題

 先日Twitterに面白い写真が流れてきた。おそらくミュージシャンらしい。部屋の3面いっぱいにDTM(卓上で音楽を制作する作業のこと)機材やパソコンや楽器が所狭しと並べられていて、ご本人はその下に仰向けになってこう呟いている。「あとないのは才能だけかぁ」。
 吹いた。吹き出した。呟きもさることながら、自分の姿に見えたから。牧師室に入るだけ本棚を入れ込んで、持っている本を何ヶ月もかけて並べた13年前。川崎に引っ越してきて一番最後まで片づかなかったのは牧師室だった。それから13年間、何冊も何冊も買い込んで、もはや土砂災害警戒レベル。注解書だとか神学書だとか、ろくすっぽ読みもしないのに、持っていないとなんとなく不安だったり後ろめたかったりして(ほとんど精神症だな)、結局目を通さない本(で、けっこう高価!)が溜まり続ける状況を見て、わたしもおんなじだと思った。「才能=だけ=」と言い切るには勇気がいるが…。
 ままま、そうだよ。牧師という仕事はたぶん才能でやるものではないことは、なんとなくそう思うよ。神学校入学の時も、教師検定試験を受ける際も、「召命感」を問われたし。神さまがわたしを召し出して、わたしが担うべきこととして──わたしが担える量よりちょっとだけ多めに──この仕事(牧師とか牧会とか)を与えてくださったのだと。だけどだ。「あとないのは才能だけかぁ」みたいな呟きが口をついて出てくるんだよ。
 もちろん、才能がありさえすれば出来るというものでもない。そもそも、人にはその人に十分なタラントが与えられているのだし(「そのタラントじゃ足らんと?」という楽屋オチがあったなぁ)。
 まぁそれでも、「才能」を巡って呟いているうちはまだいいよね。下手したらあの金持ちの若者みたいに「あなたに欠けているものが一つある。」「なんですか?」「信仰!」とか言われるよりはね。

No.687 何を誰が学ぶか

 「余人を持って代えがたい」からと、法解釈を無理矢理変更してまで定年の延長を図られた人が、なんとまぁテンピンの賭けマーシャンで辞職となった。ギャグのような展開。裏を読む様々な憶測が飛び交い、そっちの方が断然面白かったりする。曰く、「もともと本人は辞めたがっていたのではないか」とか、「検察の権威が失墜した」とか、「責任を検察庁に置くことで巻き返しを図った官邸」とか。今は当人への処分が甘すぎるのではないかとか、支払われる6千万とも7千万とも言われる退職金が批判の対象。
 辞職に伴って退職金を満額受け取ることが出来るということは、口止め料以外にないだろうことは誰の目にも明らかすぎる。だから辞めた人から何かを聞き出すことは無理だろう。一方で組織のナンバー2の不祥事を検察は払拭出来るのか。身内に甘すぎる「訓告」という処分しか出来ない検察組織が、本気で信頼回復にをはかるなら、何をするか何が動き出すかにかかるだろう。
 夏の甲子園大会の中止発表を受けて、ある高校の野球部監督が「逆境を生き抜く力を今こそ教える時だ」とインタビューに答えていた。伝える側も「大人が問われる」と。確かに高校野球も教育の一環だ。だが、野球に限らず、人は生きている限り嬉しいことも悲しいことも経験する。予定通りだったり意外だったり、想定外のことだってたくさん。でもそういう経験の度にたとえ打ちひしがれてももう一度立ち上がり歩み始めることこそが生きることそのもの。むしろ球児たちはそれを知っているのではないか。無心に白球を追いかけるのはその表れ。むしろ忘れているのは──そして忘れている故にこそ無責任なのは──大人の側だろう。今は教えるより教わるべきかと。
 一連のことを経てこの国が誰の目にも公正公平で「国際社会において、名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)るようになれるかどうか──残念ながらコロナへの対策としては世界から批判を受けている現状だけどね──。

No.686 もし希望が見えるなら

 ネットを使った授業なんてちょっと前までは際もんだと思っていたのだが、こんな社会情勢の中ではそれなりどころかけっこう重要な地位を得始めている。我が家の大学生や専門学校生も授業がネット上で行われるようになった。非常事態宣言が一部で解除され、おかみから「新しい生活様式」まで発表され、「会議はオンライン」「名刺交換はオンライン」などと推奨されてもいるし。
 この地域で言えば川崎小学校も、児童たちのケアに心を割いておられる様子が情報メールなどで伝わってくる。このままでいることも再開することもどちらをとっても厳しい状況だ。
 ただ、「学校に通えない」という状況は今回が初めてのことではない。小中学校でも、あるいは幼稚園でも、そういう事情を持つお子さんはこれまでもいた。そういうお子さんの支援のためのフリースクールもあちこちにある。文科省も「学校だけでなく民間教育施設での学習を支援し、児童生徒の自立を目指すべき」と(2017/4/4)しているし。
 何が言いたいのか。中心に正解があって周縁には問題ばかりがあるというより、現実は逆だったのではないか、ということ。教育環境の話に限ったことではなく、周縁(つまり「ボーダー」)ではずっと前から課題があってその課題に対して地道な取り組みが進められてきているのだろう。何故なら周縁とは「つねにそういう状態にある」ということなのだから。
 新型感染症の対応を巡って明らかになりつつあるのは、「本音と建て前」とか「中央と周縁」とか「陰と陽」とか、兎角2分論的に整理してそれを「合理的」として済ませてきた事柄が、それは単なる問題の先送り、あるいは単に直視しない選択だったのではないかというこの国の・我々のこれまでの姿勢だ。
 そしてもしこの先に希望が沸き起こるとしたら、そういう整理で済ますことこそが問題だったと直視するところから、かも知れない。

No.685 新しい試み

 牧師の友人たちの多くが、コロナの影響の下で様々な手段で牧会をしている様子が伝わってくる。すごいなぁと思う。新しい取り組みをしている報告もある。今は一人ひとりが簡単に発信できる時代。そういう機材も普通に身近に存在する。様々に活用されている事例を知るにつけ頓悟する思い。
 思えば、長い間教会のこちら側に居続けてきたので、例えば教会とか礼拝とかは「来るもの」だった。たまに交換講壇だとか何かで担っている教会ではない場所の礼拝に出席すると、教会や礼拝に「行く者」に変わり、新鮮だった。だがそれは例外的なことで、牧師は教会に人を迎える/招くものだ。
 ところが、コロナの影響で教会や礼拝に人々が「来る」に困難を覚えるようになった。「来るもの」前提の教会の礼拝が成り立たなくなった。「無会衆礼拝」をしているという報告もあった。
 教会や礼拝に「来られない」状況は何もコロナに限ったことではない。この当たり前のことに漸く気づいた。「来る」前提の牧会と「来られない」前提の牧会に、本来的な違いはないはず。ならば、使えるツールを活用して様々な実験をこの機会にやっておくのは意味深い。
 落語の世界でもデジタル配信が始まっている。好きな落語家が三夜連続で行った。客席に誰もいない中、カメラに向かって落語を語る。実際にやりとりはしないけど、観客との間に心のやりとりがあって初めて高座だったと改めて思うと語っていた。だが一方、寄席の収容人員を遙かに超える三千人の登録者を前に語るということは、新たな挑戦であり、新しい世界を切り開くかも知れない、とも。
 これまでも例えばEテレで一人落語を語る番組もあるにはあった。だがそれは例外中の例外。自粛もいつかは解除になろうが、その時、今始まった新しいスタイルが無意味になるのかどうか。いずこも挑戦なのだな。

No.684 風向きが悪くなってきていないか

 コロナ感染・拡大防止のために行動の自粛が求められてもうどれ程経っただろう。緊急事態宣言からももう三週間だ。このところ目にするのは、「こんな時に常識を疑うような行動をとっている」というような言説や報道。休業要請に従わないパチンコ店と、そこに集まる客の非常識さを非難するような(それでいて「非難」ではないように装うような)報道が連日テレビを賑わせている。同じようなことがゴルフ練習場でも。わざわざヘリを飛ばして「駐車場が満車です」と。
 高円寺のライブハウスで「せめてオンライン配信で」と3密を防ぐ手立てを講じた上で行った無観客ライブに「安全のために、緊急事態宣言が終わるまでにライブハウスを自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます。 近所の人(原文ママ)」という張り紙が貼られたらしい。
 なるほど、第2次大戦中のこの国では「隣組」制度が極端に発達して「非国民」を密告し国民相互監視体制が成立していったというのも頷ける。隣家を特高に密告するなんてどういう精神かと理解に苦しんだのだが、昨今の状況を見たら、それはいとも簡単なことだったのだと教えられる。
 2017年に東名高速で起こった事故を契機に、「あおり運転」が社会問題となった。あおり運転は何故起こるのか。実は煽る人は「正しいことを行っている」という意識があるという。その後起こった常磐道でのあおり運転では逆に、その報道に接する側の人が一斉に「悪」を叩くことで自分の「正しさ」が証明されるという心理が働いたようだ。結果、国中で煽り男に対する怒りが沸騰した。
 自粛要請が出されているのだから自粛することが正しいのだ。「悪」は晒し者にし、徹底的に糾弾するべきだ。コロナはそういう空気を凄まじい勢いで醸成した。それに異を唱えることは難しいのだ。