No.664 便利を再考できるかな

 クリスマスが近づくと、教会でもさまざまな品物の手配が増える。以前は足を運んで買い物をしていたのだが、今その殆どがネットショップ頼み。パソコンの画面で欲しい商品の細かな希望がほぼ叶ってしまっては、あの店この店と車を走らせ足を運ぶことが苦痛になってしまう。
 便利になるということは確かにうれしい。でも便利になるということは、「便利」というシステムが整備されて初めて叶うことでもある。そして今のところ「便利」というシステムのボトムエンドは「人力」から逃れられない。
 ということは、わたしは「便利」というモノを買うことになるわけだが、その「便利」のために、誰かがモーレツに働かなければならないということでもある。それが働きに見合うだけの補償、つまりペイされれば良いのかも知れないが、ボトムは大体搾取の対象というのが経済の原理だろう。
 そのシステムが実際誰の目にも明らかに見えるのがコンビニなのかも知れない。店主が挙って「元旦スト」と明言した。知らなかったが、たとえ個人商店であったとしても、休業するためには本部の許可がいるのだとか。だから挙って声をあげる必要があったのだ。
 かつては3が日ぐらいは街が静かだった。初詣の名所はしかたないにしても。松の内は休むという風習もうっすら覚えている。それがいつの間にか初売りが3日になり、2日になり、元日になり…。飛ぶ鳥を落とす勢いだった(そして実際百貨店を凌いだ)コンビニチェーンにも、人手不足という台風が吹き荒れ、開きたくても開けない現実が押し寄せている。
 ネットショップも、最後はその商品を誰が運ぶかにかかるわけで、わたしが店から店へ足を運ばない代わりに誰かが我が家まで足を運んで商品も運んでくれる。有難いよね。でもただ「有難いよね」で済まして良いのかどうか、わたし自身も答えを探しあぐねているのだけど。

No.663 喜びも悲しみも

 「もちろん、凡そ人間が動かされる動機というものは、自分自身でも単純に割わりきれるものではない。われわれは「召命」ということばで片付けるきらいがあるが、このことばの中には(中略)その人固有の生活史の中で、無数の出会い、無数の喜びや悩みの体験を通して形を成してゆく一つの御意(みこころ)への認識と人間的な意志や感情が折り重なっている。(中略)その中には、多くの極めて人間的な苦悩や喜び、涙や怒りの結実が含まれていることを忘れてはならない。」。東京基督教大学で図書館司書をしている学友がFacebookを通じて教えてくれたのが「医学と福音」1986年8月号(38巻7号)にある中村哲さんの一文「召命と出会い、そしてペシャワールから」。その抜粋をしてみた。
 アドヴェントはキリスト降誕の事実を噛みしめつつ備えて待つ期節なのだろう。例えば未婚の若い女性が突然妊娠を告げられ、それが神の御心だと天使が迫る時、彼女が「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と言う時、あるいはいいなずけのヨセフにその事実が告げられ煩悶するさなかに天使が御心を告げると「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1:24)たその決断が、わたしたちが気軽(?)に使う「召命」という言葉で片付けられるだろうか。そんなことはない。幾重にも折り重なった人間の心の営みと、それに対する神の迫りとの狭間で、結実していった事柄なのだ。そう考えたら単に「うれしい/たのしい/クリスマス」にはならない。にもかかわらず、いやそれゆえに、この世に救い主がお生まれになる意味の深さ/重さからこそ、アメージングな喜びに静かに満たされるのだろう。
 金曜日夕方には農村伝道神学校で「ブルークリスマス礼拝──心の痛みを抱えた人のためのクリスマス──」が行われた。本当に様々な人が、今、この時を一緒に生きている。喜びも悲しみも、み翼のかげにと祈る。

No.662 平和の器

 「勇気が必要なのは、意見をまくしたてて攻撃的になることなく、別の道を見つけるためです。」。バチカン史上初のイエズス会出身、初のラテン・アメリカ出身の教皇フランシスコの来日は大きなニュースだった。滞在中毎日ほぼトップで動向が伝えられた。わたしも「『幸福』と『人生の意味』について」というタイトルの教皇の本を読んでみた。その中の一節が冒頭の言葉。
 25日に東京ドームで5万人がミサに与ったという。その前後いろんな人から「先生は行かないのか?」と尋ねられた。むしろ川崎でいつもとおんなじように仕事している方が不思議だったり奇異に見えたのだろう。「ま、オトナの事情があってね」とはぐらかした。
 尤もフランシスコ教皇は「オトナの事情」による平和への妨げを最も警戒しろと言うに違いない。長崎で教皇は「聖フランチェスコの祈り」を引用したという。私たちの第一礼拝でも毎週祈られている。それは「わたしを平和の器とならせてください」という言葉で始まる。大所・高所からの「平和」ではなく、わたしが用いられるわたしの周囲からの平和がいつか世界を変える。だから、わたしを器にという祈り。
 結局わたしたちは「オトナの事情」という極めて便利な言葉で自分自身をいつも正当化出来る。あるいは逆に、そんな「オトナの事情」を打ちやぶるためにはもっと力が必要だと思ってしまう。それに見比べれば自分の持つたった1票の投票権なんて小さすぎて無意味だと絶望さえしてしまう。
 だが教皇は「勇気が必要なのは闘うためであり、必ずしも勝つためではありません。」(前掲書)と言う。攻撃的な力を持つ必要はない。打ち負かす必要もない。別の道を見つけるために、今いるところから立ち上がる勇気があれば良いのだ、と。
 使い古された「グローカル」。再びいのちを吹き込まれたようだった。

No.661 土曜日の休日ってどうよ

 今日は、キリスト教の暦では一年で一番最後の日曜日。終末主日という名前が付いている。そして行事暦として日本基督教団では「収穫感謝日・謝恩日」も併記されている。
 おそらく農業の視点から「収穫感謝」ということばは存在するのだと思う。だが、この国では11月の第4週辺りはもはや収穫がほとんど終了している。「終末主日」ということがわからなかった頃にはこの時期の収穫感謝がどうしても馴染めなかったのだが、「終末主日」との関係で考えると、その意味がなんとなくわかるような気がする。一年の最後の主の日に、この一年のすべてを神様に感謝しようという思いが「終末主日」なのではないか。だから収穫物を神さまの前に持参して感謝の祈りを捧げるのだけれど、農作物はそのシンボルなのであって、本来は「わたし」を捧げること、「わたし」の上に注がれてきた神さまの祝福や導きを思い起こして、改めて神さまに従ってゆこうという決意を感謝のうちに確認することが、この主日の意味なのではないかと思えるのだ。そしてその派生が「謝恩日」。
 そういえば23日(土)は「勤労感謝の日」だそうだ。内閣府の「祝日の一覧」によると「勤労感謝の日」の意味は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のだとか。所謂「ハッピーマンデー」として固定的な休日ではなくなっている日もあるのに、どうして勤労感謝の日は…と、同じようなことを考える人はいるらしく、ネットにはその答えとおぼしき説が挙がっている。一言でいってしまえば休日はいつでもよいが祝日は固定日でなければならないということらしい。尤も昭和2年3月4日勅令第25号「休日ニ關スル件」には11月23日が「新嘗祭」と書かれている。皇室では最も意味のある祭日らしい。その最大にして一世一代のものが「大嘗祭」だとテレビでは盛んに宣伝していたなぁ。あんまり関係ないけど…。

No.660 ホスピタリティが問われる

 教会のホームページを新規でつくろうかと思い、準備を進めている。
 川崎教会に赴任した時に役員会は「教会ホームページ作成について」という議題を継続審議としてきていたが、コンテンツをどうするかでほぼ頓挫していた。そこで、前任地でやって来たことを踏襲し「多摩川べりから」をブログで──かなり牧師の個人的な趣味で──公表し、そこに教会からのお知らせなども掲載することで、教会の公認ページ風な体裁を保ってきた。
 もちろんその継続に何か問題があるわけではないが、やはり教会として正式にドメインを取得し、メールアドレスを設定するのが良いのではないかと思ったのだ。コンテンツは基本的には毎週更新されるこの「多摩川べりから」と「次週の礼拝予告」を柱として、折々の教会からのお知らせ(クリスマス合同礼拝や祝会のお知らせとか、オータムフェスタBBQのお知らせとか)を掲載すればかなりの更新頻度になる。場合によっては音声や画像を載せることだって可能なので、遠方にいても(世界中どこにいても!)教会のたった今の様子を配信することも可能だ。赴任当時暗礁に乗り上げたことを完全に・簡単に実現出来るように時代が進んだ。
 実は幼稚園は15年ほど前にホームページを開設し、今では園児募集や職員募集に力を発揮している。だが開設当初レンタルしたのが安い外国のサーバーだったので、更新に関わる作業が全く進まず、「syowa.org」を手放さざるを得なかった。今年の前半は新規取得・新規構築に膨大な時間がかかった。その経験があるので、教会は国内サーバーで契約したいとも思う。
 だけど、一番大事なことは、世界に門戸を拡げる以上、これまで教会なんか知らなかった・関係なかったという膨大な方々に、教会の門をくぐるハードルを下げることなのだと思う。つまり、リアルなわたしたちのホスピタリティが問われるのだ、と。そっちが難問だったりして (^^ゞ

No.659 国の主人はおいらだ!

 国会では憲法審査会が開かれている。総理大臣が臨時国会冒頭で語った所信表明演説では「令和の時代に、日本がどのような国を目指すのか。その理想を議論すべき場こそ、憲法審査会ではないでしょうか。」と述べて、「必ず改憲を成し遂げる」という宣言どおりに事柄を進めようとしている。
 改憲勢力の主張は「我が国の実情を踏まえた改憲議論の重要性」だ。世界の情勢や地球環境が急激に変化する中で、憲法だけがなにも変わらないままで良いのか、と言う。国民の教育を受ける権利を「教育無償化」と明記すべきとか、災害が頻発する中で救助・復興活動をする自衛隊を憲法に明記してその働きの根拠を定めるべきだ、とか。
 だが「憲法」というのは、総理の言う「どのような国を目指すのか」の基本原理として、主権者である国民の側が国家権力の暴走を抑制するのがそもそもの意義だ。そこから考えた時、世界の情勢や地球環境がどれ程急激な変化を見せたとしても、逆に「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」の3原則が変更されなければならない理由にはあたらない。この3原則以外の、あるいはこの3原則ではない別の原則が本当に必要なのか。
 確かに権力者たちにとっては「別の原則」が必要なのだ。だから彼らは現行憲法を「押しつけられたもの」と言い続けている。その主語は「占領軍」と言うが、ホンネはそうではないだろう。「国民」が権力側に押しつけていることが許せない、権力側がもっと権力を謳歌したい。それがホンネだ。
 権力者は詐欺師のようにわたしたちから主権を奪い取ろうとしているのだ。だから「国会の憲法審査会なんてわたしたちの暮らしの中ではほとんど意味がない」と思うように、そういう術にはめられている。そしてひとたび改憲発議されれば、あたらしい憲法草案がどれだけカッコ良いかテレビCMで垂れ流される。そういう時が刻一刻迫っている。