No.697 5ヶ月を二千年のごとく

 先週の礼拝で献金奉仕者が「7月最後の日曜日」と祈られ、改めて「おぉ、7月も終わりかぁ」と思った。
 そんなことを思うなんて、漫然と日々を過ごしてきたような後ろめたさがある。だが、今年は確かにこれまでとは違う。
 新型感染症に怯える日々も早5ヶ月、加えて今年はいつまでも梅雨が明けず、毎日雨が降り続き太陽もろくに見ていないこともあって、「7月終わり・夏まっ盛り」という気分に全く浸っていない。
 メンタルがそんなに強くも弱くもないけ私だけれど、こうして羅列してしまうと気が滅入りそうでもある。だから努めて微かな光や希望を発見しても来た。目に見えないウィルスがこの時代に何かをこじ開けた先に何かが始まることを──それはもちろん「良い」ことばかりではないのは覚悟しつつも──やはり期待したいのだ。
 川崎教会もさまざまな人にこの「週報」を送っているのだが、そのお返しにいろいろなところの週報や機関紙が送られても来る。そしてどこも、やはり苦労の5ヶ月だったのだと思わされてもいる。いずこも「十分に準備期間をおいて、試運転も繰り返し、その評価の下で新しいことに踏み出した」なんてことではなく、日々の差し迫った事態に即決する以外ない状態で踏み出しているのだ。迫られての見切り発車。
 困ったことである。苦労することである。これまでのことが出来ないし通じないのだ。だけど、不幸ではない。わたしたちはいつだって──つまりこれまでだって──事柄に差し迫られて重い腰を上げ、決断し、しかも十分に顧みる余裕もなく歩んできた。それが「時代を切り開く」ことだった。格好良く華々しいことではない。地道な、そして恥ずかしいことも多々あった。
 二千年の教会の歴史は、それを教えてくれているのではないかな。

No.696 サンマが教えてくれたこと

写真提供:テレビ朝日

 北海道釧路の市場に今年のサンマ初水揚げがあったというニュースを見た。30年以上前仙台でひと夏の伝道実習をした時、8月末に終わる実習に間に合うかどうかというタイミングで、残念ながら初サンマを食べられなかった思い出がよみがえって、「今年は少し早いのかなぁ」などと思った。だが、ニュースの驚きはそこではなかった。
 初水揚げされたサンマは全部で197匹だという。重さにして20.9キロ。例年より5日ほど遅く量も去年の半分以下。取引はキロ辺り38,000円とこれまでの最高値。スーパーでは「一尾6,000円」の値札がついていたのだ。
 折しも「土用の丑」の話題が出始めた頃、ちょっとした国産ウナギの倍もするサンマに出会うことがあろうとは、思いもしなかった。
 記録的不漁だった2019年の半分以下と聞くと乱獲や異常気象を嘆くほかない。ところが7月20日の北海道新聞夕刊にこんな記事が載った。「漁獲量最低更新の理由」。水産資源管理学・鯨類学が専門の北大大学院松石隆教授の記名記事。抜粋すると「漁師が乱獲して、海の中の魚の量が3割になったというわけでは決してない。実は減ったのは魚の数ではなく、漁師の数である。…漁師の数が3割に減ったので、漁獲量も3割になったという計算である。」。
 先日NHK「こころの時代」に東八幡キリスト教会の奥田知志牧師が出演された。「創世記では人間が一番最後につくられた。必要なものが備えられて初めて人間は暮らしていける。人が人を支え合ってはじめて暮らしは成り立つ。」というようなことを話されていた。そしてコロナは、それまでに隠されていた人の心──他者との関係を断とうとする──を浮き彫りにしている、と。
 漁師が漁をして初めてサンマも食卓に上る。それも直接ではなく、夥しい人とエネルギーが消費されて初めて。見えなかったこと、見ないで来たことの一端を、今年のサンマが教えてくれる。それにしても、高い(>_<)。

No.695 てんやわんや

 先週はなんだか「Go To」に翻弄されたような感じ。
 長女がこの連休に単身赴任している連れ合いを訪ねて神戸に行くというので、「22日からキャンペーンが始まるみたいだよ」と伝えたのが11日。ちょうどいつもは混み合う川崎駅の「びゅうプラザ」がガランとしていたので情報を聞きにいった。ところが窓口で応対してくれた店員さんは「詳しいことが未だ何にも伝わっていなくて…国交省のホームページで確認いただくほかないのです」とすまなそうに応対してくださった。22日から始まるのに旅行代理店でも未だ何も知らされていないと聞いて驚いたのだが、つまり実務を担う人の声を聞いてキャンペーンを始めるのではないのだな、ということだけは良〜く分かった。
 15日には漸くトラベル事業の詳細が旅行代理店に伝えられたらしいが、ここに来て急転直下、17日には「東京除外」、加えて「若者団体旅行・高齢者団体旅行・大人数の宴会を伴う旅行」も除外されると。例のびゅうプラザ川崎の店員さん、またまた困惑してしまうだろうなぁと真っ先に思った。案の定旅行会社各社は予約のキャンセルで対応に困惑しているらしい。キャンセル料は早まって予約した人の自己責任。「「キャンペーンします」と言うから予約した」という言い訳は通じない。ほぼ詐欺被害だね。
 なんとうか、混乱の見本のような政策だとしか言いようがない。「責任を持って」とか「いっしょうけんめい」とか「努力して」とか言うが、結局受入施設の感染予防だけが頼り。ことが起こったら施設の対応の拙さのせいと言うだろうなぁ。神奈川・千葉は箱根や湘南、東京ディズニーランドがあるから除外しなかったらしい。これだってことが起こったら「黒岩・森田(知事)」のせいなんだろうね。
 票・権力維持・カネ、それ以外の目的が全く見いだせないのだが…(困)

No.694 未来はあるか の3(たぶんおしまい)

 先日、市民運動を担っている方々とお話しする機会があった。
 世の中新型感染症の影響でどんなプライベートな会合でさえ開催することが困難な状況に追い込まれている。川崎教会も教会総会を書面表決で行わざるを得なかったが、それは市民運動にとっても同様で、しかも運動体にとってはみんなで集まって話し合ったり行動したりするのが生命線であるが故に、事態はより深刻なのだ。
 その深刻さを象徴したひとつの出来事が先日の東京都知事選挙だった。これまでのいわゆる「選挙運動」なるものがほぼ出来ない中で、だからこそいわゆる「組織票」が結果を決定づけた。圧勝だった。対抗する立候補者の訴える内容は決して悪くはなかったし、こういう状況にもかかわらず多くの聴衆が詰めかけてもいた。だがそういうことが「結果」に影響を与えなかった。
 つまり、本当は届いてほしい人たちに思いが伝わらなかったのではないか。しかも伝えるチャンスを大幅に削がれた中では、そもそも手段を全部もがれてしまったようなもの。市民運動にとって寄って立つ根幹が問われているのではないか。そんなことを語り合ったのだった。
 そういう会話を交わしながら、でもなんだかわたしはその話題に既視感を持っていた。そして気がついた。「訴える内容は決して悪くはない」のに「本当は届いてほしい人たちに思いが伝わらない」のは、なぁんだ、プロテスタントキリスト教会がこの国で150年も味わい続けている現実ではないか、と。
 「コロナの影響」などと声高に叫ばなくても、教会はずっと以前からそういう状態だ(もちろん今回のことで更に加速はしたけど)。高齢化で後継者も育っていないのも今に始まったことではない。だけど、教会は続いてきた。人の力ではないからだ。
 なんだ、希望はずっと足下にあったのだよ。青い鳥みたいなものだね。

No.693 未来はあるか の2(たぶん続く)

 6月19日に県を跨ぐ往来が解禁され、休業・自粛要請も全て解除となり、人々の動きが活発になった。7月に入ると、街はますます通常に戻っていった。幼稚園もほぼ通常の通園状態、園バスの運行も再開した。
 様々な事柄が元に戻っていくときに、いちばん心配したことは家庭が崩壊していないか、自殺者が増えないか、これまで感染症の陰に隠されていたことが一気に吹き出してくるのではないかということだった。
 幸い、関係する施設でそういう問題は浮上しなかった。ただこれは「今のところ」と言うほかない。皆、過度なストレス状態に置かれていたし、そんなストレス状況は今も続いているのだから。
 そして問題は思わぬ展開を迎える。東京で感染者が増大し始めたのだ。都が発表している「新規患者に関する報告件数の推移」グラフを見ると、今がちょうど第二波の入口のような図形。「第二波に備える」というのであれば対策をとるのは今がタイムリミットと思われる。
 だけど東京都知事は「「夜の街」に出かけないで」としか言わないし、国の大臣に至っては記者会見で逆ギレし「感染症対策を個人でもっとしっかりやれ」と。どちらも第二波に備える対策は「自己責任ね」と言っているのと同じ。「都も国も責任は負いません」と。
 もちろんこんなことは今まで誰も経験したことがなかったのだ。目に見えないモノの恐怖は別にこれまでもあった。だけどそれはつねにどこか他所で起こっていたことだった。「大変だね」とは言ってきたが、大変なのはいつも「他の誰か」だった。だから今目の前で起こっていることを記憶にとどめ、記録を残しておく必要がある。ひとつの出来事はたくさんの違った目で記憶され残される必要がある。
 そしてそれでもわたしたちは生き続けてゆくのだ。未来を思い描きながら。

No.692 未来はあるか の1(たぶん続く)

あれは一体なんだったのだろう…

 新型コロナウィルス、東京は3日連続で40人を上回ったという(26日現在)。だが経済優先に舵を切って以来、以前はあれほど深刻に自粛を呼びかけていた東京都知事がウソのように「数が多いのは検査数が増えたから」「医療体制は充実している」として特段の配慮を言わなくなった。都庁やレインボーブリッジを再び赤く染める気はさらさらなさそう。
 だけど、結局わたしたちには本当のところは分からない。細い細いチャンネルで現状を把握しようとするなら「陽性率」だけかな、見えてくるのは。検査を受けた数を母数とし陽性が出た数を子数とすると、現罹患者の全体数は分からなくても大凡どれくらい蔓延しているのかがぼんやり分かるわけだ。
 役所というのは「数字」が好きだと思っていた。小さな幼稚園にも幾ばくかの「補助金」というモノが降りてくるが、闇雲に下さるなんてことはなくて、5月1日時点の園児数や教職員数、うち免許保持者の数…等々実に細かく数字を出させられる。まぁそうやって実態を確認した上でなければ税金をまわせないという慎重さは、事務手数に目をつぶりさえすれば理解できる。だがこれがひとたび「国」レベルになると、あっという間に何もかもどんぶり勘定になるのは何故だろう。統計も適当だったと言うし、記録もとらないし、都合の悪い記述は好き放題改変できるらしい。何がどうなっているのか。
 現状を正しく把握しないままで立てられる対策などない。もちろん「現状把握」ということひとつとってもバイアスはかかる。数字は単なる数字であって、それを「どう」読むかが重要なのだから、読み手の思惑が入り込む余地は十分にある。でも数字がでたらめだったり適当だったりしたらバイアスどころの話ではない。単に不安だけを拡散することになる。そしてそのウラで何かこそこそやるんだろうなぁ。
 と、そんなことだとしか思えないこの国に、未来はあるのだろうか。

No.691 国会終わって


無意味な記者会見 毎日新聞より

 国会が閉会した。記者から「前法務大臣とその連れ合いが現職議員として逮捕されたこと」について追求されると、「任命責任を痛感している」と──もう何度同じ言葉を吐いただろうか、この人は──宣う。コロナ禍での閉会について聞かれると「閉会中でも求められれば、政府として説明責任を果たしていきます」と──もう何度同じ言葉を吐いただろうか、この人は──。
 「丁寧な対応」とか「責任を痛感」とか「責任を果たす」とか「説明をする」とか、文字に書けば分かるが、全部動詞。動詞とは本来動作・作用・存在を表すものだ。だが、このかたの言葉には動作も作用も──ひょっとしたら存在すらも──無いし感じない。だから緊迫性も共感性も持てない。
 例えば「丁寧な説明をする」と言われたら、わかりやすい言葉を使って相手が理解できるように語ってくれることを期待するだろう。だが官邸が語るのは「その指摘はあたらない」とか「全く問題がない」という言葉だけ。これをもって「丁寧」とは言い難い。
 「責任」は確かに感じるものだ。だが、責任を感じた者は次に何らかの行動をとる。「余人を持って代えがたい」とか「適材適所」とか言って任命したが、どうやらそうではなかったとしたら、それこそ丁寧な説明をもって次の人を選び直すか、そもそも「自分には人を見る目がないから」と、任命権を手放す──つまり職を辞する──だろう。だがそれももちろんない。
 一方でやたらと自慢話はする。補正予算成立で「空前絶後の規模、世界最大の対策」とは言うが、手続きが止まっている持続化給付金、未だ来ない10万円、やっと届き始めたらしいマスク等々の実態に対しては、丁寧に説明もしないし、責任は自治体や官僚に丸投げ。
 もはや転がるだけ転がった感じ。だけど選挙権をみすみす手放す者が5〜60%もいては、転がりかたが更に加速するだけだな。どうよ、都知事選?

No.690 楽しい時間を過ごしてきた

「事件は現場で…」By青島

 戸塚にある日本バプテスト神学校で「実践神学Ⅱ」という連続講座の一コマをいただき、お話をしてきた。
 「バプテスト神学校」は日本バプテスト同盟の学校。当然ながら集まっている学生たちはバプテスト教会から送り出され、遣わされていく先もほとんどバプテスト同盟の教会。
 バプテスト同盟は、川崎教会も所属する日本基督教団新生会と最も近い関係がある。わたしが川崎教会に赴任する前から、川崎教会のクリスマス献金送付先に「バプテスト神学校」があった。それだけ実際にも関わりがあったという証拠だ。ただ、わたしにとっては「献金を送る先」という認識しかなかった。伺うにもとっかかりがなかった。ところが昨年、新生会教師会を川崎で引き受けるにあたって、これをチャンスとばかり新生会として公式にバプテスト神学校を表敬訪問した。以後、様々お誘いいただく度に出かけては関係を深め、ついに神学校の授業に講師として出かけることになったのだった。
 わたしは日本基督教団、それも狭い奥羽教区という範囲で育ち、漸く20年ほどを西中国と神奈川で従事しているだけだ。合同教会で育ち、合同教会で働いているということが、単一教派神学校で学ぶ学生たちにプラスになるのかどうかは分からなかったが、それでも経験を話す以外に語る言葉はない。
 準備を進め、実際に話してみて、改めて浮き彫りになったことがある。教派の違いはもちろん神学的観点での違いではあるのだろうが、実際問題としては「作法」の違いにしか過ぎないことが大多数だということ。そして教会で牧師として立つということに教派による違いなど無いということ。あるのは置かれている場。そして、その「場」にどれだけ共感性を保ちながら立ち続けるかが、問われることの全てだ、ということ。
 「事件は現場で起こっている」。踊る大走査線の名言が頭の中を駆け巡った。

No.689 重苦しい空気

 6月に入って、いろいろなことが元に戻ったように再起動し始めた。とは言え、恐怖が完全に去ったわけではないから、なんだか恐る恐るではあるが。
 3・11の後、川崎でもあちこちで「節電」が叫ばれるようになった。外灯は暗くなり、エスカレーターなども早めに運転が終了した。教会の建っている場所は計画停電もほぼなかったが、幼稚園の教職員が住む地域では頻繁に行われたところもあったようだ。だが、いつの間にか通常に戻った。戻るまでどれくらいかかったかは覚えていないが、意識の上ではあっという間に戻ったような気がしている。
 目に見えない放射線のために、川崎を離れた人もいた。ごく少数ではあった。そして幼稚園の通路から基準を超える放射線が測定され、それが川崎市のホームページに掲載されたりもした。一時確かに大騒ぎではあった。だけど今、少なくとも川崎で生活する上で、放射線量とか無駄な電力の使い方がそんなに気にはならなくなった。
 同じように目には見えない、そして確率からすれば放射線よりも遙かに小さい値でしかないコロナウィルスへの対応が、なんだか3・11より厳重であるのが東北人としては引っかかる。雑駁な知識の感覚から言えば、「それは都市部を襲撃したからではないのか」というのが正直な感想。
 コロナの影響を最も強く受けるのは、人の多すぎる都市部だ。もちろんクラスターは都市部ではないところでも発生した。だがそれは一時的な過密によるものでしかない。そういった例外を除けば、首都圏とか関西圏とか、とにかくやたらと人の多い地域が狙われている。それでも都市部で暮らすことを簡単には止められまい。となれば発生が確率的にどんなに少なくても、近似値ゼロならなければこの恐怖は止められないし、恐怖を抱えたままで擬似通常に戻らざるを得ない。それが今充満している空気。重っ苦しい。

No.688 閑話休題

 先日Twitterに面白い写真が流れてきた。おそらくミュージシャンらしい。部屋の3面いっぱいにDTM(卓上で音楽を制作する作業のこと)機材やパソコンや楽器が所狭しと並べられていて、ご本人はその下に仰向けになってこう呟いている。「あとないのは才能だけかぁ」。
 吹いた。吹き出した。呟きもさることながら、自分の姿に見えたから。牧師室に入るだけ本棚を入れ込んで、持っている本を何ヶ月もかけて並べた13年前。川崎に引っ越してきて一番最後まで片づかなかったのは牧師室だった。それから13年間、何冊も何冊も買い込んで、もはや土砂災害警戒レベル。注解書だとか神学書だとか、ろくすっぽ読みもしないのに、持っていないとなんとなく不安だったり後ろめたかったりして(ほとんど精神症だな)、結局目を通さない本(で、けっこう高価!)が溜まり続ける状況を見て、わたしもおんなじだと思った。「才能=だけ=」と言い切るには勇気がいるが…。
 ままま、そうだよ。牧師という仕事はたぶん才能でやるものではないことは、なんとなくそう思うよ。神学校入学の時も、教師検定試験を受ける際も、「召命感」を問われたし。神さまがわたしを召し出して、わたしが担うべきこととして──わたしが担える量よりちょっとだけ多めに──この仕事(牧師とか牧会とか)を与えてくださったのだと。だけどだ。「あとないのは才能だけかぁ」みたいな呟きが口をついて出てくるんだよ。
 もちろん、才能がありさえすれば出来るというものでもない。そもそも、人にはその人に十分なタラントが与えられているのだし(「そのタラントじゃ足らんと?」という楽屋オチがあったなぁ)。
 まぁそれでも、「才能」を巡って呟いているうちはまだいいよね。下手したらあの金持ちの若者みたいに「あなたに欠けているものが一つある。」「なんですか?」「信仰!」とか言われるよりはね。