No.669 25回目と9回目

 阪神淡路大震災から25年が経った。四半世紀。震災後の人口が増えてゆく中で、体験をどう伝えてゆくかが課題だという。
 岩手県の5つの教会幼稚園が連合して学校法人となって、毎年冬に学園の職員研修会を行っていた。25年前のこの日は研修2日目だった。朝から関西で大きな地震があったようだが、詳細は不明というテレビのニュースだった。時間の経過と共に、これまで見たことのないような風景が映し出された。高速道路が横倒しになり、鉄筋コンクリートのビルが倒れかかっている。永田地区では毛布を頭からかぶり呆然と立っている人が映し出された。しばらくして火の手が上がり、人々は──テレビの前の我々も──なすすべもなく燃え広がるのを見ていた。
 3・11は、関東でも経験のないような地震となった。横浜の取引銀行まで出向いて、その帰り道だった。信号が止まった国道15号をとにかく急いで車を走らせ帰ってきた。
 幼稚園では、この日を境に、これまでの避難訓練が無意味なのではないかと思わされた。近隣の小学校なども対応のガイドラインを定めたので、幼稚園もそれに合わせ新たに「防災のしおり」をつくった。このしおりの中に、あの日幼稚園の周辺がどうだったのか、できるだけ詳しく、園児の暮らしに関わる事柄に焦点を当てて綴った。いずれ体験したことのない職員が幼稚園に関わるようになるなら、その時何らかの標になればという思いだったのだ。
 それでもその時咄嗟に動けるのかどうか、本当のところはわからない。すべてのいのちを守りきれる自信も、ハッキリ言えば無い。もちろん最善は尽くす。そして事柄が起きたら、その事柄に即してできるかぎりの手を尽くす。それ以外にないのだと改めて思う。
 だからせめて、記念日は覚え続けよう。いつまで経っても。

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