No.687 何を誰が学ぶか

 「余人を持って代えがたい」からと、法解釈を無理矢理変更してまで定年の延長を図られた人が、なんとまぁテンピンの賭けマーシャンで辞職となった。ギャグのような展開。裏を読む様々な憶測が飛び交い、そっちの方が断然面白かったりする。曰く、「もともと本人は辞めたがっていたのではないか」とか、「検察の権威が失墜した」とか、「責任を検察庁に置くことで巻き返しを図った官邸」とか。今は当人への処分が甘すぎるのではないかとか、支払われる6千万とも7千万とも言われる退職金が批判の対象。
 辞職に伴って退職金を満額受け取ることが出来るということは、口止め料以外にないだろうことは誰の目にも明らかすぎる。だから辞めた人から何かを聞き出すことは無理だろう。一方で組織のナンバー2の不祥事を検察は払拭出来るのか。身内に甘すぎる「訓告」という処分しか出来ない検察組織が、本気で信頼回復にをはかるなら、何をするか何が動き出すかにかかるだろう。
 夏の甲子園大会の中止発表を受けて、ある高校の野球部監督が「逆境を生き抜く力を今こそ教える時だ」とインタビューに答えていた。伝える側も「大人が問われる」と。確かに高校野球も教育の一環だ。だが、野球に限らず、人は生きている限り嬉しいことも悲しいことも経験する。予定通りだったり意外だったり、想定外のことだってたくさん。でもそういう経験の度にたとえ打ちひしがれてももう一度立ち上がり歩み始めることこそが生きることそのもの。むしろ球児たちはそれを知っているのではないか。無心に白球を追いかけるのはその表れ。むしろ忘れているのは──そして忘れている故にこそ無責任なのは──大人の側だろう。今は教えるより教わるべきかと。
 一連のことを経てこの国が誰の目にも公正公平で「国際社会において、名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)るようになれるかどうか──残念ながらコロナへの対策としては世界から批判を受けている現状だけどね──。

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