No.688 閑話休題

 先日Twitterに面白い写真が流れてきた。おそらくミュージシャンらしい。部屋の3面いっぱいにDTM(卓上で音楽を制作する作業のこと)機材やパソコンや楽器が所狭しと並べられていて、ご本人はその下に仰向けになってこう呟いている。「あとないのは才能だけかぁ」。
 吹いた。吹き出した。呟きもさることながら、自分の姿に見えたから。牧師室に入るだけ本棚を入れ込んで、持っている本を何ヶ月もかけて並べた13年前。川崎に引っ越してきて一番最後まで片づかなかったのは牧師室だった。それから13年間、何冊も何冊も買い込んで、もはや土砂災害警戒レベル。注解書だとか神学書だとか、ろくすっぽ読みもしないのに、持っていないとなんとなく不安だったり後ろめたかったりして(ほとんど精神症だな)、結局目を通さない本(で、けっこう高価!)が溜まり続ける状況を見て、わたしもおんなじだと思った。「才能=だけ=」と言い切るには勇気がいるが…。
 ままま、そうだよ。牧師という仕事はたぶん才能でやるものではないことは、なんとなくそう思うよ。神学校入学の時も、教師検定試験を受ける際も、「召命感」を問われたし。神さまがわたしを召し出して、わたしが担うべきこととして──わたしが担える量よりちょっとだけ多めに──この仕事(牧師とか牧会とか)を与えてくださったのだと。だけどだ。「あとないのは才能だけかぁ」みたいな呟きが口をついて出てくるんだよ。
 もちろん、才能がありさえすれば出来るというものでもない。そもそも、人にはその人に十分なタラントが与えられているのだし(「そのタラントじゃ足らんと?」という楽屋オチがあったなぁ)。
 まぁそれでも、「才能」を巡って呟いているうちはまだいいよね。下手したらあの金持ちの若者みたいに「あなたに欠けているものが一つある。」「なんですか?」「信仰!」とか言われるよりはね。

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