No.720 「させていただいている」という逃げ

 「川崎教会の牧師をさせていただいている滝澤です。」。唐突だが、このようにわたしが自己紹介したら、皆さんはどう思われるだろうか。問題は「させていただいている」という表現だ。
 日本基督教団で牧師になるために受けなければならない「教師検定試験」には文字通り神学に関するテストもあるが、根底で問われているのは知識ではなく「召命感」のようだ。牧師として立つということは神から召されているという信仰無くしてあり得ない(?)から。だから「牧師」とは「神が立てた」のだという意味で「(神に)させていただいている」という思いが含まれるのかも知れない。だがわたしは絶対に「させていただいている」とは言わないだろう。わたしなら「川崎教会牧師の滝澤です」と言うに違いない。
 この「させていただいている」という表現を、近年頓に目にし耳にする。この表現のキモは相手の許可があるかどうか、許可が必要かどうか。まぁギリギリ牧師は勝手には出来ないわけで、神の許可(?)あってのものだが、でも結局自分がやりたかったのだろう。あるいはそれしか出来なかったのだ。その現状の責任を「神」のせいには出来ないはず。信徒や教会に迷惑をかけ続ける牧師がいたとして、「それは任命した神が悪い」なんて論理にはならない。悪いのは神ではなくそいつだ。職務は委ねられたものだ。だがその職務を遂行するのはあくまでわたしだ。だから責められるとしたらわたしが負わなければなるまい。その覚悟があるなら「させていただいている」なんて言う逃げは卑怯だ。
 二度目の緊急事態宣言の会見で1分に1回「思います」を連発する首相もどうかと思うよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきたいと思います。」ってナニ? 最悪。リーダーならせめてこう言おうよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきます。」ってさぁ。やるのは君だろう??

1月17日の礼拝

降誕節第4主日 主題「最初の弟子たち」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 イザヤ書45章12節
 おはなし 手造り
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 エゼキエル書2章1-3章4節
  使徒書 ヨハネの黙示録10章8-11節
  福音書 マタイによる福音書4章18-25節
  交読詩編 40編6-12節
 賛美歌 賛美歌21から 402番 516番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 人を用いる
 礼拝後の予定 ぶどうの会・役員牧師館内覧
※コロナ対策のため短縮礼拝です

1月定例役員会・主な審議事項

(1)1~2月コロナ対策について
 現在の対策以上に出来ることはないので継続するが、緊急事態宣言が発令される/された時は臨時役員会を開催して対応を検討する
(2)牧師招聘手順
 牧師館の修繕に関して、大工の高井さんと一緒に17日礼拝後にチェックする
(3)年末年始の教会行事についての評価・反省
 特別なことは何もしなかったが、礼拝が出来たことを感謝
 クリスマス礼拝に48名、イヴ礼拝に20名参加
(4)その他消息等略

No.719 年末年始の風景

 我が家の子どもたちが皆帰ってきて、年末年始は6人+2匹の賑やかな時間を迎えた。川崎で過ごす最後の年末年始でもあり、子どもたちも自分の生活に区切りをつけ、残した荷物などを処分する必要もあった。
 コロナ禍で迎える初めての年越し。街中到る所でこれまでとは違った過ごし方をしなければならない。なんだか不思議な感覚だ。
 お向かいの浄土宗教安寺。檀家さんやご近所さんが集まって除夜の鐘をつくのが恒例。だが今年はコロナのために一般の鐘つきは無くなった。代わりにご住職が「数回」鳴らすという。聞こえたのは3回だった。みんなの煩悩がずいぶん少なくなったようだ。ラ・チッタでは新年と共に何か鳴り物があったが、今年はそれもない。新春福袋が人気の珈琲チェーンなども、今年はネット応募の抽選になったし、長い行列が毎年の風物詩だったヨドバシカメラの新春初売りも店頭販売は中止になった。我が家の犬たちの元日初散歩で見るチッタの通りも、日常とそれほど変わらなかった。普段ならたくさんの福袋を抱えている人たちが多く見受けられたが、そうでもなかったのはひょっとして元日休業が少し増えたからかも知れない。
 川崎・鶴見地区も、地区委員が何度も協議を重ねた上で元日恒例の「地区新年礼拝」を今年は取り止めた。例年80〜100人程度が集まった礼拝だ。
 14年間一度も出かけたことはないが三が日で川崎と言えば毎年全国第二位の参拝者を記録する川崎大師。ホームページを見る限りマスク・消毒以外特別な記述はなく、例年通り参拝者を迎える模様。一瞥して例年と変わらない越年の様子が元日のテレビで流れていた。ひょっとしたら違わなかったのはここだけだったのかも知れない。
 そんなこんなで大晦日の深夜、我が家では「なんだか年越しという感じがしないねぇ」との声。そういうことなんだな、と改めて。

1月10日の礼拝

1月10日の礼拝
降誕節第3主日 主題「イエスの洗礼」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 詩編119:105
 おはなし ともしび
 担当 黒木恵美子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 サムエル記上16章1-13節
  使徒書 ローマの信徒への手紙6章12-23節
  福音書 マタイによる福音書3章13-17節
  交読詩編 2編1-12節
 賛美歌 賛美歌21から 510番 499番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 心によって見る
 礼拝後の予定 CS教師会
※コロナ対策のため短縮礼拝です

1月3日の礼拝

降誕節第2主日 主題「エジプト逃避」
《川崎教会新年礼拝》
第一礼拝 冬休み中(再開は1月10日)
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 エレミヤ書31章15-17節
  使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅱ1章3-11節
  福音書 マタイによる福音書2章13-23節
  交読詩編 70編2-6節
 賛美歌 賛美歌21から 472番 356番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 未来には希望が
 聖餐式執行 配餐 谷戸久美子、松島美一
 礼拝後の予定 1月定例役員会
※コロナ対策のため短縮礼拝です

No.718 チキン受難曲

 クリスマス礼拝もクリスマスイヴ礼拝も特別なことを一切やらずに礼拝のみに集中したおかげ(?)で、普段とは違って時間と精神に少しだけ余裕の出来た今年のクリスマスだった。その余裕の時間を使って、巷のクリスマスを少しだけのぞき見してみることが出来たのだった。
 驚いたのは、食料品を扱うお店──レストラン(テイクアウトを含む)やスーパーマーケット、コンビニストア──のほとんどで、「チキン」のメニューが山盛りになっていたこと。
 ちょっと前までは、クリスマスと言えばケーキのお店が臨時で出店されていたことしか印象がない。だが今年、それ以上に驚いたのが大量のチキンだった。フライドチキンやローストチキンは言うに及ばず、唐揚げや焼き鳥に至るまで、あらゆる「チキン料理」がいつもの倍〜3倍ほど積み上げられている。コンビニのレジ横にもたくさんのチキンが並ぶ。チキンを喰わなかったらクリスマスじゃないかのごとき。
 1970年、大阪にケンタッキーフライドチキンの実験店がオープンする。10年ほど後には「クリスマスにフライドチキン」が定着し始めたと言われている。そのイメージは確かにあった。あの店にとってはクリスマスでチキンは当然欠かせないのだろうな、ぐらいの認識だった。だが、40年かけて「クリスマスにはチキン」がここまで過熱してきたということに驚いて認識を新たにしたのだった。
 シュトーレンというケーキは産着のイメージだと聞いたことがある。それを少しずつスライスして味の変化を楽しむらしい。「赤ん坊を喰うのかぁ」などと興の冷めるようなことを言うモンじゃない。そもそも十字架の死後墓に収められる姿の先取りでもあるのだ。してみれば、クリスマスに受難する数多の鶏たちもまた、わたしの食材モトイ贖罪なのかも知れぬ。アーメン。

なんだか幸せな気になる…ありがとう鶏!!