No.726 不透明な「透明性」

武藤敏郎
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長

 「透明性」という言葉を辞書でひけばだいたいこんな答えが返ってくる。「制度の運営や組織の活動状況が、第三者にはっきりとわかるようになっていること。また、その度合い。」。
 今回東京五輪組織委員会会長の選出にあたり繰り広げられたドタバタ劇は橋本聖子五輪担当大臣が大臣職を棄てて(後には自民党を離党して)就任を受諾したことで決着したようだ。しかしその選出を巡って「会長の選任は国民にとって透明性のあるプロセスでなければならない」との組織委員会の姿勢の下「候補者検討委員会」が設置されたのに、誰がメンバーなのか、どういう議論が行われたのかなどあらゆる事は結局非公開で進められた。繰り返しになるが「透明性」とは「制度の運営や組織の活動状況が、第三者にはっきりとわかるようになっていること」であるにも関わらず、だ。
 森会長辞任とその後任が川淵氏になったと報じられた瞬間、多くの人が危機感を共有したようだ。森さんはそもそも総理大臣になるとき既に密室談合だったのだが、おそらくあの方の頭の中では、密室談合で決着することこそ最善の政治的解決方法だと信じて疑っていないのではないかと思われる。残念なのは、ただでさえコロナでオリンピックに向けた高揚ムードが消沈している現状に消防ホースで水をぶちまけるようなものだということが分からないほど、良く言えば混乱しておられたのだろう(「悪く言う」本音を綴ったらここがハラスメントな言葉のオンパレードになりそう)。その瞬間から密室談合を非難する声が驚くほど高まり川淵さんは辞退表明する。SNSが「国民の声」という力を発揮したことでもあった。
 このところたてつづけにSNSの力が発揮されるようになった気がする。誰でも意思を表明できるのは極めて良いことだ。その「意思表明」を今度は選挙でも発揮しなければ、本当に世の中を変えることにはならないのだけどね。

No.725 人生にはあそびが必要(自己弁護ぢゃないよぅ)

 このところなかなか寄席に行けない。外出する機会もめっぽう減ってしまったのが原因だが、何せどうひいき目に見ても「寄席に出かける」事が「不要不急」以外の何ものでもないわけだし。
 独演会は芸人の真髄をたっぷり見て聞いて、その人となりを味わう貴重な場所であり時間だ。それももちろん楽しみなことではある。だけど一方でいろんな芸風を持ったいろんな芸人が様々な芸を短い時間で披露する寄席という場所もなかなか面白いものだ。
 だいたい芸人は「わたしの話は社会にとってちっとも有意義ではない」と平気で言う。「不要不急」そのものだと言っているようなものだ。だけどそういうものこそ実は意味があるのではなかろうか。
 40年近く前、免許を取得するために自動車学校に通った。車の簡単な構造なども学ぶ。その時車のハンドルやブレーキには「あそび」と呼ばれる、余裕というかゆとりというか隙間というか(他の表現が見当たらない)があって、しかも絶対必要だと習った。下手をすればいのちに関わる自動車の運転にとって、構造上あそびがどうしても欠かせないというのはなんだかとっても哲学的な示唆があるではないか。
 目に見えないウィルスに怯え続けた1年。もちろんただただ怯えていた頃からすればずいぶんとその正体も判るようになった。それでも自由が利かない状態は全く変わらない。「あそび」が重要だという説はかなり説得力ある。
 一見「無駄」のように思えるもの、「無意味」に思えるもの、あるいは「邪魔」なように見えるもの。世の中にはたくさんあるし、わたし自身の中にもたっぷりある。14年ぶりの引越に向け、やったことのない片付けなんぞをしてみると、それはそれはほとんど棄てて構わないようなものだらけ。一体何をそんな後生大事に保持していたのか、我ながら呆れているのだけれど…。

No.724 ビワの花が、ついに

ビワの花が…
こんな実になる日も近い

 教会建物の西側に小さな花壇スペースがある。ここは不思議な花壇で、どういうわけか時々土が崩れ去る(まさか首都高やJRがトンネルを掘っているわけではあるまい)。教会員の辻さんが園児たちのために胡頽子の鉢植えをくださった時も土の崩落が頻繁だったので、鉢のまま植え込んでいる。それでも胡頽子は元気に花を咲かせ、実をみのらせる。
 7〜8年ほど前に、ビワの苗木をいただいて植えておいた。もう背丈は優に2階の手すりを超えているのだが、一向に花を咲かせない。外階段から手を伸ばしてビワをもいで食べるのを夢見てきたのだが、毎年葉芽しかつかなかったのだ。というのも防府教会で働いていた頃、そこには幼児施設があって(わたしたちが着任した1999年3月で閉園)、庭に築山と飛行機型の遊具があった。閉園後園庭を整理して築山を壊し、遊具の飛行機がついに空を飛んでビワの木の脇に動いた。我が家の子どもたちや近所の友だちがたくさん遊びに来ては飛行機の翼に登ってビワをもいだ。食べ放題。我が家の夕食後のデザートも庭に出てビワというのが風物詩でもあった。このビワは幼児施設の職員が食べて出たタネを植えた(棄てた?)もの。とても美味だった。
 2021年の今年、ついに川崎教会のビワの木にたくさん花が咲いた。梅雨が開けて初夏を迎える頃には美味しい実をみのらせるのではないかと期待がわく。尤もその頃わたしたちはもう川崎にはいないのだけれど。
 この場所、夏にはゴーヤーを植えている。土と相性が良いのかとても良くみのる。また、大葉(青しそ)も時々移植するが、秋の終わり頃まで勢い良く葉を茂らせる。これも相性が良いのに違いない。
 たぶん、人も土との相性が大切なのだろう。もちろん人は知恵ある生きものだから、相性を知恵で獲得も出来るに違いない。そうやって許される限りそこに根を張る。そんな生き方をこれからもしたいものだと思った。

No.723 物言えば唇寒し

 やはり総理の頭の中は「自助・自己責任」前提だったのだな。
 27日の参議院予算委員会で、生活に苦しむ人たちへの対策を問われた総理は「政府には最終的に生活保護があり、セーフティーネットを作っていくのが大事」と答え、定額給付金再度給付の気持ちはないことを改めて明言した。求められたのはおそらくもっと実効的な政策だったろうに。
 だが、生活保護を受けるためのハードルは高い。総理流の「まず自助」が出来なくなったら家族親族などの「共助」に責任追求される世界でも類を見ない三親等までこの国ではその責任を負わされているのだ。三親等といえばわたしから見て曾祖父か曾孫、叔父伯母、甥姪だ。ただでさえ少子化・核家族化が進む中、「親族共同体」どころか兄弟関係だって構成員が少なく希薄になっている中、民法上の扶養義務を生活保護申請要件に当てはめる例もたくさん見られるという中で、「最終的に生活保護」が決してセーフティネットにはなりえない事例を挙げるに事欠かない。なのに総理はそこに拘泥する。
 大体、保護を受けなくてもよい状態を自己責任で創り出せるなら問題はない。コロナの影響を受けて収入が激減した人、仕事を失った人、そもそも罹患した人に一体どんな「責任」があったのか。たとえそういう状態になったとしても安心して暮らしを立てられるような政策を施さない政府にこそ「責任」はあるのだし。だが総理の答弁にはそんな思いは欠片も感じられない。
 確かに、主権者たる国民が国家権力の暴走をとどめるためにこそある「憲法」に国民の義務(とにかく「公」に奉公する国民像)をどうしても書き加え改悪したがる人たちの考えそうなことだ。
 これを他山の石としよう。わたしたちだって下手をすれば、あらゆる事をコロナのせいにして逃げることが出来る。普段なら後ろめたいことさえ、これを持ち出せばなんでも許されてしまいそうな今だからこそ。

No.722 思いがけず

 先週「歌謡曲ウィルス」という三上知恵さんの言葉を紹介した。その中に「その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。」と書いたが、その週の半ば、20日の水曜日にこの現象が再発した。それがなんと驚くべき事に(?)その日頭の中を流れたのは聖歌498番歌いつつ歩まん」だったのだ。そして気がついた。この日、つまり2月20日は瀬谷重治牧師の召天日だった(1988年)。
 瀬谷重治は秋田県横手にある秋南教会の牧師。生涯をその教会に捧げ尽くした人。秋南教会は横手中学に英語教師として赴任したM・M・スマイザーによって形作られその働きを受け継いだのが瀬谷。瀬谷は明治学院で神学を学んだので旧教派的には長老派だが、スマイザーの個性かどうか、私が幼少の頃はホーリネス教会のような礼拝だった。だから礼拝や祈祷会では聖歌もたくさん歌った。そんなこんなが心理の奥底にあってか、この日は目覚めた時から(あるいは夢うつつの時から既に)「歌いつつ歩まん」の日だったのだ。
 そういえば母は家事の間よく聖歌や賛美歌の鼻歌を歌っていた。父が病院を退院しその足で施設に入所したので、思いがけず一人暮らしが始まった今もたぶん誰に遠慮もせず鼻歌を歌い続けているのではなかろうか。
 聖歌になじみのない方もおられると思うので、498番の歌詞を記すとこうなる。「主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみもとに 荷を降ろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を」。牧師である者がこんなことを言うのもナンだが、書き写して恥ずかしくなるほど信仰的! ただ正直に告白(?)すると、わたしは間違いなくそういう環境で生まれ育ってきたのは事実なのだ。
 歌詞を読み出したら、瀬谷の歌声まで耳の底に響いてくる。ちょっと低いよく通るハリのある声だった。

No.721 歌謡曲ウィルス

懐かしのTBS「ザ・ベストテン」TBSチャンネル2で再放送が始まったらしい

 映画監督の三上智恵さんが神戸新聞にコラムを連載し始めたが、その第一回目がなかなか面白い。要約すると、彼女の頭の中にはいろんな歌謡曲がエンドレスで流れるらしい。これを彼女は「歌謡曲ウィルス」と名付け、まるでヘルペスのように弱ったり暇になったりすると「ムクムクと表出し、どの曲かまわず頭の中にガンガン鳴らす」のだという。
 ガンガンというほどではないが、私もいろんな歌(曲)が頭の中でエンドレスに流れることがある。その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。
 このコラムで面白いのは「このウィルス保持者は、もしかすると昭和のテレビ世代限定かも知れない」という洞察だ。どういうことか。昭和のテレビではいわゆる歌謡番組が多かった。例えばTBSで1978年1月にスタートし、およそ12年間にわたって放送されたザ・ベストテンはその代表かも。毎週ランキングで示され、歌手がスタジオやコンサートライブの会場からその曲を歌った。ジャンルは広く、自分の趣味ではない曲や取り立てて好きではない歌手の歌でも流れるわけで、いつの間にかお門違いの歌のメロディも歌詞もすっかりすり込まれたものだ。そういうバラエティ溢れる様々な曲が、何かの刺激によって頭の中でスパークするわけだ。良くわかる。「今の若者は好きな曲だけ選んで聴くから、われわれのように、たとえ好みは違えど「襟裳岬」は全員歌えるという共通体験がないだろう。」と。
 マツコ・デラックスが同じようなことを言っていた。黒柳徹子さんはベストテンでステキで奇抜な衣装を毎回着ていたが、それが出演者の責任だと語っていたと。「テレビが元気だったステキな時代を生きてきたのよ」って。
 マスメディアの存在意義が厳しく問われている。「お茶の間」が消滅した今、テレビももはや古いメディアなのか。淋しくもあり淋しくもあり。

No.720 「させていただいている」という逃げ

 「川崎教会の牧師をさせていただいている滝澤です。」。唐突だが、このようにわたしが自己紹介したら、皆さんはどう思われるだろうか。問題は「させていただいている」という表現だ。
 日本基督教団で牧師になるために受けなければならない「教師検定試験」には文字通り神学に関するテストもあるが、根底で問われているのは知識ではなく「召命感」のようだ。牧師として立つということは神から召されているという信仰無くしてあり得ない(?)から。だから「牧師」とは「神が立てた」のだという意味で「(神に)させていただいている」という思いが含まれるのかも知れない。だがわたしは絶対に「させていただいている」とは言わないだろう。わたしなら「川崎教会牧師の滝澤です」と言うに違いない。
 この「させていただいている」という表現を、近年頓に目にし耳にする。この表現のキモは相手の許可があるかどうか、許可が必要かどうか。まぁギリギリ牧師は勝手には出来ないわけで、神の許可(?)あってのものだが、でも結局自分がやりたかったのだろう。あるいはそれしか出来なかったのだ。その現状の責任を「神」のせいには出来ないはず。信徒や教会に迷惑をかけ続ける牧師がいたとして、「それは任命した神が悪い」なんて論理にはならない。悪いのは神ではなくそいつだ。職務は委ねられたものだ。だがその職務を遂行するのはあくまでわたしだ。だから責められるとしたらわたしが負わなければなるまい。その覚悟があるなら「させていただいている」なんて言う逃げは卑怯だ。
 二度目の緊急事態宣言の会見で1分に1回「思います」を連発する首相もどうかと思うよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきたいと思います。」ってナニ? 最悪。リーダーならせめてこう言おうよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきます。」ってさぁ。やるのは君だろう??

No.719 年末年始の風景

 我が家の子どもたちが皆帰ってきて、年末年始は6人+2匹の賑やかな時間を迎えた。川崎で過ごす最後の年末年始でもあり、子どもたちも自分の生活に区切りをつけ、残した荷物などを処分する必要もあった。
 コロナ禍で迎える初めての年越し。街中到る所でこれまでとは違った過ごし方をしなければならない。なんだか不思議な感覚だ。
 お向かいの浄土宗教安寺。檀家さんやご近所さんが集まって除夜の鐘をつくのが恒例。だが今年はコロナのために一般の鐘つきは無くなった。代わりにご住職が「数回」鳴らすという。聞こえたのは3回だった。みんなの煩悩がずいぶん少なくなったようだ。ラ・チッタでは新年と共に何か鳴り物があったが、今年はそれもない。新春福袋が人気の珈琲チェーンなども、今年はネット応募の抽選になったし、長い行列が毎年の風物詩だったヨドバシカメラの新春初売りも店頭販売は中止になった。我が家の犬たちの元日初散歩で見るチッタの通りも、日常とそれほど変わらなかった。普段ならたくさんの福袋を抱えている人たちが多く見受けられたが、そうでもなかったのはひょっとして元日休業が少し増えたからかも知れない。
 川崎・鶴見地区も、地区委員が何度も協議を重ねた上で元日恒例の「地区新年礼拝」を今年は取り止めた。例年80〜100人程度が集まった礼拝だ。
 14年間一度も出かけたことはないが三が日で川崎と言えば毎年全国第二位の参拝者を記録する川崎大師。ホームページを見る限りマスク・消毒以外特別な記述はなく、例年通り参拝者を迎える模様。一瞥して例年と変わらない越年の様子が元日のテレビで流れていた。ひょっとしたら違わなかったのはここだけだったのかも知れない。
 そんなこんなで大晦日の深夜、我が家では「なんだか年越しという感じがしないねぇ」との声。そういうことなんだな、と改めて。

No.718 チキン受難曲

 クリスマス礼拝もクリスマスイヴ礼拝も特別なことを一切やらずに礼拝のみに集中したおかげ(?)で、普段とは違って時間と精神に少しだけ余裕の出来た今年のクリスマスだった。その余裕の時間を使って、巷のクリスマスを少しだけのぞき見してみることが出来たのだった。
 驚いたのは、食料品を扱うお店──レストラン(テイクアウトを含む)やスーパーマーケット、コンビニストア──のほとんどで、「チキン」のメニューが山盛りになっていたこと。
 ちょっと前までは、クリスマスと言えばケーキのお店が臨時で出店されていたことしか印象がない。だが今年、それ以上に驚いたのが大量のチキンだった。フライドチキンやローストチキンは言うに及ばず、唐揚げや焼き鳥に至るまで、あらゆる「チキン料理」がいつもの倍〜3倍ほど積み上げられている。コンビニのレジ横にもたくさんのチキンが並ぶ。チキンを喰わなかったらクリスマスじゃないかのごとき。
 1970年、大阪にケンタッキーフライドチキンの実験店がオープンする。10年ほど後には「クリスマスにフライドチキン」が定着し始めたと言われている。そのイメージは確かにあった。あの店にとってはクリスマスでチキンは当然欠かせないのだろうな、ぐらいの認識だった。だが、40年かけて「クリスマスにはチキン」がここまで過熱してきたということに驚いて認識を新たにしたのだった。
 シュトーレンというケーキは産着のイメージだと聞いたことがある。それを少しずつスライスして味の変化を楽しむらしい。「赤ん坊を喰うのかぁ」などと興の冷めるようなことを言うモンじゃない。そもそも十字架の死後墓に収められる姿の先取りでもあるのだ。してみれば、クリスマスに受難する数多の鶏たちもまた、わたしの食材モトイ贖罪なのかも知れぬ。アーメン。

なんだか幸せな気になる…ありがとう鶏!!

No.717 排気ガスか核廃棄物か

 政府は2030年代半ばをめどに国内でのガソリン車の新車販売をなくす目標を掲げた。50年に温室効果ガス排出量の実質ゼロをぶち上げたことから、それを達成するためには電気自動車の普及を進めなければならないということらしい。東京都は30年までに、二輪車は35年までにと、国より更に5年ほど前倒しする目標を掲げたようだ。英国/中国/米カリフォルニアが同じように30〜35年ころまでという目標を設定していることも影響ありかな?
 ガソリンやディーゼル車は排出ガスがあるが、電気自動車には排出ガスはないということなのだろうか。確かに、走行中はね。だけど、電気自動車を走らせるその「電気」はどうやってつくられるのだろう。
 「第5次エネルギー基本計画」によれば2030年目標は、液化天然ガス火力が約27%、石炭火力が約26%、再生可能エネルギーが22%から24%、原子力が20%から22%、石油火力が約3%。ざっと「火力」が56%というわけだ。
 つまり、走行中温暖化ガスを排出しない車を走らせるために、温暖化ガスを排出する発電で電気をつくるという、ヘンな話しになっちゃうんだけど。そもそも電気自動車をつくる段階でも排出ガスが大量に発生するのだし。
 トヨタ自動車の社長が「国のエネルギー政策の大変革なしに達成は難しい」「このままでは日本で車をつくれなくなる」と発言し、政府発表当初とは反応を変えてきたのが気になる。彼の言う「エネルギー政策の大変革」とは何を指すのか。コロナへの対応ぶりから類推して今の政府の考えそうな「大変革」は、「発電中にCO2を出さない」原子力発電の割合を高めるしかなさそう。
 「走行中はCO2を出さない」車のために「発電中にCO2を出さない」原子力発電を増やして、最終的には地球のお荷物となる超大量の「核廃棄物」を生み出す構造のどこが先進的取り組みなのだろう。
 ここでもわたしたちの行動変容が求められている気がするなぁ。

ZEROエミッションカー 燃料電池で走るトヨタMIRAI