5月7日礼拝

復活節第5主日 主題「神の子の自由」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 マルコによる福音書1章14-15節
 お話の題:神の国が近づいた
 担当 平井克也牧師
     9:30~10:15 CS活動
第二礼拝 10:30~11:30
 聖書
  旧約聖書 
  使徒書  
  福音書  ヨハネによる福音書13章21ー30節
  交読詩編 119編9-16節
 賛美歌 賛美歌21から 402番 288番 ほか
 説教者 平井克也牧師
 説教題 裏切りの予告

1月1日元旦礼拝

降誕節第2主日 主題「神殿での奉献」
第一礼拝 冬休み
 
 
 
第二礼拝 10:30~11:30
 聖書
  預言書 
  使徒書  
  福音書  ルカによる福音書24章36-53節
  交読詩編 84編6-53節
 賛美歌 賛美歌21から 266番 279番 ほか
 説教者 平井克也牧師
 説教題 旅は続く
 礼拝後の予定 川崎・鶴見地区 新年礼拝 14時から溝ノ口教会

カテゴリー次週の礼拝

9月4日礼拝

聖霊降臨節第14主日  主題「すべての人に対する教会の働き」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 詩編103編1-5節
 お話の題:恵みを忘れない
 担当 平井克也牧師
     CS活動 第一礼拝後から10:15まで
第二礼拝 10:30~11:30
 聖書
  旧約聖書 創世記1章1節~2章4節前半
  使徒書  コリントの信徒への手紙二13章11-13節
  福音書  
  交読詩編 40編2-12節
 賛美歌 賛美歌21から226番、414番
 説教者 平井克也牧師
 説教題 一同と共に

No.731 最終回ですが…

 14年ぶりの引越、行き先が今の住まいより大分小さくなるので思い切っていろいろなものを捨てた。捨てざるを得なかった。
 断捨離といえば「スリムになって心もスリムに!」みたいな良いことしか聞こえてこないが、私にとっては全く逆だった。持っているものを捨てる(棄てる)ということがこれほど心を蝕むものだとは思いもしなかった。
 通常、新しいことが始まる時は期待にワクワクするものだが、そうならないのは単に年齢を重ねたからだけの問題ではなく、「棄てる」事につきまとう喪失感だった。その正体は何だろう?
 14年前は子どもたちも小さかった。家にあるあらゆるモノをとにかく運び出した。それでもいろいろと処分はした。入る家が小さくなるからだ。そして今回さらに小さくなる。棄てざるを得ない。物惜しみも確かにあるが、必要だと思って集めたモノに「不要!」という烙印を押すのだ。集めたことが無意味だったと言っているようなもの。10数年費やしてきたあらゆる事が「不要!」「無意味!」と断じられてしまったような、そんな喪失感。これは心を蝕む。
 だが、ここはやはり敢えて考え直す。今、棄てることが出来たのだ。生きていればこそ不要品も溜まる。それは「品」が不要になっただけのことで、自分という人間が「不要」になったこととは違う。そして不要なモノを所持しないことが今後、自分にとっても世界にとっても、きっと意味があると信じる。そういう暮らしにこれから先の時間を賭けてみる。今、そういう決断の時だったのだ、と。つまり、断捨離というより脱皮、かな(?)。
 いよいよにっちもさっちも行かなくなったことがずいぶん昔にあった。そしてその場から文字通り脱出した。夜逃げほどひどくはなかったけどね。引越にはそういう側面が確かにある。だが今回は「脱出」ではなく「脱皮」だ。誰がなんと言おうと!

蝉は脱皮じゃなくて羽化だけどね

No.730 やっちまったンだよ、僕らは

福島第一原子力発電所のいま
<https://futabafuture.com/2017/09/27/progress_1f/>

 3月11日はもとより、その日付が近づくとテレビやラジオは一斉に「東日本大震災10年」を特集した番組になった。
 わたしたちは10年という単位を一区切りにする習慣がついているから、震災も節目を迎えた感覚になる。だが今年2月13日には福島沖を震源とするあの震災の余震とみられる大きな地震が起こった。マグニチュード7.3、最大震度6強。地球のメカニズムには区切りも節目もない。
 福島第一原子力発電所の爆発事故がなければ福島県の浜通りだって地元の人たちが復興に向けて動き始めていただろう。余震はたちまちあの災害を思い起こさせ、人々の心に警戒感を生む。あれほどひどいことはゴメンだが、災害が風化されてしまうのもまた困る。余震はイヤだけど必要なこともあるかも知れない。だが、原子力発電所はもうどんな事故も故障も起こってはいけない、起こしてはいけない。廃炉が何年かかろうとも、そして経費がどれだけかかろうとも、国が責任を持って担い続けなければなるまい。
 税金が投入されることはイヤだというムキもあるだろう。だが、わたしたちには「原発こそコストが安い」「原発こそクリーン」という言葉を信託した責任がある。そしてその責任は残念ながら原発事故被災者/被災地にもある。「税金を使うのがイヤ」だったら、今なお原発を推進する政治家どもを信託することをまず止めるべきだ。特に、自分が原発事故被災者/被災地でないのならなおさら。せめてそうでもしなければ、ある日突然故郷を追い出された人たちが贖われることはない。そうしたからといって贖われるかどうかも自信はないのだけれど…。
 わたしたちは、償いきれないことをしてしまったのだ。これまでのすべての人類と、これからのすべての人類に対して。だが、償いきれないことと償わないこととは違う。10年目に、改めて思う。

No.729 持続可能な組織を

 先日、町内会や様々なボランティアで世話人をしてくださっている方たちといろんな雑談をした。その中で小川町には子ども会が町内会とは別組織で存在していたが、数年前に町内会が吸収して今はひとつの組織になっていることを知らされた。理由は様々あるが、別組織でも世話をし働く人が同じだということが原因のひとつらしい。さもありなん。そしてこれは別世界の話ではなく、キリスト教界も同じ問題を抱えている。
 最近頓に「SDGs(エス・デー・ジーズ)」という言葉を耳にする。ラジオなどでは1週間に亘って特集が組まれたりもしていた。「持続可能な開発目標」などと訳される。2015年9月の国連サミットで採択され、加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標(「Gs」つまりゴールズ)を指す。17の目標に169のターゲットがあり、さらにターゲットの下に232の指標があるらしい(詳しくはwebで)。今年はゴールまでのちょうど3分の1を迎えたわけで、そのせいで「SDGs」「SDGs」と叫ばれているのかも知れない。
 サスティナブル=持続可能。町内会にしてもキリスト教界にしても組織とは究極的に持続可能であることが求められる。つくった以上、続けなければならないわけ。キリスト教界に限っていえば有り余るほど人材があったことなどほとんど経験ないわけで、担い手不足は永遠の課題。とは言えやはり戦後ブーム世代がどんどん天界に移られて深刻の度合いはさらに増してはいる。打つべき手もなかなか見いだせない。
 でも、そんな経験知こそが案外今社会から求められるかも知れない。人口減少に拍車がかかり社会全体の担い手がどんどん減る中、「国」という組織、「地域」という組織をこぢんまりさせながらも持続してゆく知恵。
 教会がいつまで存続可能かを真剣に問うたら(恐)…祈るしかないさぁ。

No.728 「「人」として生きる」ことが問われる

 なんだかなぁな記事がインターネットに出ていた。
 「リスクモンスターは2月19日、第8回「離婚したくなる亭主の仕事」の調査結果を発表した。」というもの。20~49歳の既婚女性600名を対象にインターネットで行われたらしい
 これによると「夫の仕事に対して不満がある」人は43.0%、夫の年収が低いほど妻の不満が高くなる傾向がうかがえたとか、およそ10人に1人(11.5%)が「夫の仕事が原因で離婚したい」と考え、500万円を境に離婚意識に差が出ているとか、年収別に見ると「給料が低い」は「300万円未満」では9割以上、600万円を境に給料に対する不満の割合は半数以下、年収1,000万円以上では0%だとか。思わず吹いたのが「「テレワークが少ない」という不満よりも「テレワークが多い」という不満の方が多くテレワークによって夫が家にいることに対して不満を抱えている様子が窺える」だって。
 これが何を示そうとしているのだろうか。アンケートの結果だけが記されているわけで、では何が問題でどうすれば解決できるかは示されない。政策で既婚男性が皆最低年収600万以上になるようにすれば解決なのか、年収がどれだけあってもテレワークで家にいるだけで問題になることを「Withコロナ」の中どう解決するのか、出来るのかもわからない。
 一方これとは真逆に見える「孤独・孤立問題」で内閣府に対策室が設けられたという。孤独は人格に大きく関わる事柄だと思うから単に善悪で判断してはならない気がするが、孤立は文字通りそこにさしのべるべき手がないもしくは見えていない事が問題なのだろうから、確かに政策的課題ではある。単純に人と人とが一緒に暮らしていれば良いということではどうやらなさそうだというのが、先のアンケートから読み取るべき事柄かも。
 やはりコロナが問うたのは「「人」として生きること、とは」だったのだ。

No.727 思い起こしたこと

 先日車を運転していたら、あちこちでずいぶんと梅の花が咲いていることに気がついた。教会の周りには梅の木がないので気づかなかった──つまりわたしもずいぶんと「外出自粛」していたのだと改めて思ったりもした。
 そのルート上に梅の花に混じってコブシが咲いている。今年はやはり暖かいのかも知れない。そして足利市の山火事。これらのことが頭の中で重なって、ある風景がありありと思い出されたのだった。
 岩手県・遠野市に住んでいた頃、仕事のために週一度汽車(!)を使って盛岡まで出勤していた。夏場は車で通うのだが、冬場は汽車を使うことが、出勤を認めてくれた教会員の定めた唯一の条件だった。遠野駅から教会に向かって歩く道の延長線上にある城山の中腹に、春になると一際早く白い鳥が群がっているように見える大きな木があった。それがコブシ。周りは未だ緑にも染まらない中、唯一立っているコブシの木は凛として清々しかった
 その通勤ルート上に、大規模な山火事が発生したことがあった。今回のように数日燃え続けたのだった。そんなことがすっかり記憶から消えたある寒い冬の日、車窓に広がる山肌に、まるで等高線のように点々と点線が見えた。最初はなんだか良くわからなかったのだが、よく考えてみるとあの大規模な山火事があった斜面に新しく植林した跡が斜面が真っ白に雪に覆われて等高線のような点線になっていたのだ。
 山火事を引き起こしたのは人間だったわけだが、その被害を止め、再生へと動かすのもまた人間の業だった。等高線はその証明。それがわかった瞬間、わたしは感動していた。厳しいばかりの冬ではあるのだが、春にむかう冬の寒さには、北国人なら誰でも胸に持つ希望でもある。厳しい現実と、にもかかわらず降り注ぐ暖かい日差し。自然の力と人間の業とのせめぎ合いと調和を、そこにまざまざと見た思いがしたからだった。

No.726 不透明な「透明性」

武藤敏郎
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長

 「透明性」という言葉を辞書でひけばだいたいこんな答えが返ってくる。「制度の運営や組織の活動状況が、第三者にはっきりとわかるようになっていること。また、その度合い。」。
 今回東京五輪組織委員会会長の選出にあたり繰り広げられたドタバタ劇は橋本聖子五輪担当大臣が大臣職を棄てて(後には自民党を離党して)就任を受諾したことで決着したようだ。しかしその選出を巡って「会長の選任は国民にとって透明性のあるプロセスでなければならない」との組織委員会の姿勢の下「候補者検討委員会」が設置されたのに、誰がメンバーなのか、どういう議論が行われたのかなどあらゆる事は結局非公開で進められた。繰り返しになるが「透明性」とは「制度の運営や組織の活動状況が、第三者にはっきりとわかるようになっていること」であるにも関わらず、だ。
 森会長辞任とその後任が川淵氏になったと報じられた瞬間、多くの人が危機感を共有したようだ。森さんはそもそも総理大臣になるとき既に密室談合だったのだが、おそらくあの方の頭の中では、密室談合で決着することこそ最善の政治的解決方法だと信じて疑っていないのではないかと思われる。残念なのは、ただでさえコロナでオリンピックに向けた高揚ムードが消沈している現状に消防ホースで水をぶちまけるようなものだということが分からないほど、良く言えば混乱しておられたのだろう(「悪く言う」本音を綴ったらここがハラスメントな言葉のオンパレードになりそう)。その瞬間から密室談合を非難する声が驚くほど高まり川淵さんは辞退表明する。SNSが「国民の声」という力を発揮したことでもあった。
 このところたてつづけにSNSの力が発揮されるようになった気がする。誰でも意思を表明できるのは極めて良いことだ。その「意思表明」を今度は選挙でも発揮しなければ、本当に世の中を変えることにはならないのだけどね。

No.725 人生にはあそびが必要(自己弁護ぢゃないよぅ)

 このところなかなか寄席に行けない。外出する機会もめっぽう減ってしまったのが原因だが、何せどうひいき目に見ても「寄席に出かける」事が「不要不急」以外の何ものでもないわけだし。
 独演会は芸人の真髄をたっぷり見て聞いて、その人となりを味わう貴重な場所であり時間だ。それももちろん楽しみなことではある。だけど一方でいろんな芸風を持ったいろんな芸人が様々な芸を短い時間で披露する寄席という場所もなかなか面白いものだ。
 だいたい芸人は「わたしの話は社会にとってちっとも有意義ではない」と平気で言う。「不要不急」そのものだと言っているようなものだ。だけどそういうものこそ実は意味があるのではなかろうか。
 40年近く前、免許を取得するために自動車学校に通った。車の簡単な構造なども学ぶ。その時車のハンドルやブレーキには「あそび」と呼ばれる、余裕というかゆとりというか隙間というか(他の表現が見当たらない)があって、しかも絶対必要だと習った。下手をすればいのちに関わる自動車の運転にとって、構造上あそびがどうしても欠かせないというのはなんだかとっても哲学的な示唆があるではないか。
 目に見えないウィルスに怯え続けた1年。もちろんただただ怯えていた頃からすればずいぶんとその正体も判るようになった。それでも自由が利かない状態は全く変わらない。「あそび」が重要だという説はかなり説得力ある。
 一見「無駄」のように思えるもの、「無意味」に思えるもの、あるいは「邪魔」なように見えるもの。世の中にはたくさんあるし、わたし自身の中にもたっぷりある。14年ぶりの引越に向け、やったことのない片付けなんぞをしてみると、それはそれはほとんど棄てて構わないようなものだらけ。一体何をそんな後生大事に保持していたのか、我ながら呆れているのだけれど…。