ネットを使った授業なんてちょっと前までは際もんだと思っていたのだが、こんな社会情勢の中ではそれなりどころかけっこう重要な地位を得始めている。我が家の大学生や専門学校生も授業がネット上で行われるようになった。非常事態宣言が一部で解除され、おかみから「新しい生活様式」まで発表され、「会議はオンライン」「名刺交換はオンライン」などと推奨されてもいるし。
この地域で言えば川崎小学校も、児童たちのケアに心を割いておられる様子が情報メールなどで伝わってくる。このままでいることも再開することもどちらをとっても厳しい状況だ。
ただ、「学校に通えない」という状況は今回が初めてのことではない。小中学校でも、あるいは幼稚園でも、そういう事情を持つお子さんはこれまでもいた。そういうお子さんの支援のためのフリースクールもあちこちにある。文科省も「学校だけでなく民間教育施設での学習を支援し、児童生徒の自立を目指すべき」と(2017/4/4)しているし。
何が言いたいのか。中心に正解があって周縁には問題ばかりがあるというより、現実は逆だったのではないか、ということ。教育環境の話に限ったことではなく、周縁(つまり「ボーダー」)ではずっと前から課題があってその課題に対して地道な取り組みが進められてきているのだろう。何故なら周縁とは「つねにそういう状態にある」ということなのだから。
新型感染症の対応を巡って明らかになりつつあるのは、「本音と建て前」とか「中央と周縁」とか「陰と陽」とか、兎角2分論的に整理してそれを「合理的」として済ませてきた事柄が、それは単なる問題の先送り、あるいは単に直視しない選択だったのではないかというこの国の・我々のこれまでの姿勢だ。
そしてもしこの先に希望が沸き起こるとしたら、そういう整理で済ますことこそが問題だったと直視するところから、かも知れない。
No.685 新しい試み
牧師の友人たちの多くが、コロナの影響の下で様々な手段で牧会をしている様子が伝わってくる。すごいなぁと思う。新しい取り組みをしている報告もある。今は一人ひとりが簡単に発信できる時代。そういう機材も普通に身近に存在する。様々に活用されている事例を知るにつけ頓悟する思い。
思えば、長い間教会のこちら側に居続けてきたので、例えば教会とか礼拝とかは「来るもの」だった。たまに交換講壇だとか何かで担っている教会ではない場所の礼拝に出席すると、教会や礼拝に「行く者」に変わり、新鮮だった。だがそれは例外的なことで、牧師は教会に人を迎える/招くものだ。
ところが、コロナの影響で教会や礼拝に人々が「来る」に困難を覚えるようになった。「来るもの」前提の教会の礼拝が成り立たなくなった。「無会衆礼拝」をしているという報告もあった。
教会や礼拝に「来られない」状況は何もコロナに限ったことではない。この当たり前のことに漸く気づいた。「来る」前提の牧会と「来られない」前提の牧会に、本来的な違いはないはず。ならば、使えるツールを活用して様々な実験をこの機会にやっておくのは意味深い。
落語の世界でもデジタル配信が始まっている。好きな落語家が三夜連続で行った。客席に誰もいない中、カメラに向かって落語を語る。実際にやりとりはしないけど、観客との間に心のやりとりがあって初めて高座だったと改めて思うと語っていた。だが一方、寄席の収容人員を遙かに超える三千人の登録者を前に語るということは、新たな挑戦であり、新しい世界を切り開くかも知れない、とも。
これまでも例えばEテレで一人落語を語る番組もあるにはあった。だがそれは例外中の例外。自粛もいつかは解除になろうが、その時、今始まった新しいスタイルが無意味になるのかどうか。いずこも挑戦なのだな。
No.684 風向きが悪くなってきていないか
コロナ感染・拡大防止のために行動の自粛が求められてもうどれ程経っただろう。緊急事態宣言からももう三週間だ。このところ目にするのは、「こんな時に常識を疑うような行動をとっている」というような言説や報道。休業要請に従わないパチンコ店と、そこに集まる客の非常識さを非難するような(それでいて「非難」ではないように装うような)報道が連日テレビを賑わせている。同じようなことがゴルフ練習場でも。わざわざヘリを飛ばして「駐車場が満車です」と。
高円寺のライブハウスで「せめてオンライン配信で」と3密を防ぐ手立てを講じた上で行った無観客ライブに「安全のために、緊急事態宣言が終わるまでにライブハウスを自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます。 近所の人(原文ママ)」という張り紙が貼られたらしい。
なるほど、第2次大戦中のこの国では「隣組」制度が極端に発達して「非国民」を密告し国民相互監視体制が成立していったというのも頷ける。隣家を特高に密告するなんてどういう精神かと理解に苦しんだのだが、昨今の状況を見たら、それはいとも簡単なことだったのだと教えられる。
2017年に東名高速で起こった事故を契機に、「あおり運転」が社会問題となった。あおり運転は何故起こるのか。実は煽る人は「正しいことを行っている」という意識があるという。その後起こった常磐道でのあおり運転では逆に、その報道に接する側の人が一斉に「悪」を叩くことで自分の「正しさ」が証明されるという心理が働いたようだ。結果、国中で煽り男に対する怒りが沸騰した。
自粛要請が出されているのだから自粛することが正しいのだ。「悪」は晒し者にし、徹底的に糾弾するべきだ。コロナはそういう空気を凄まじい勢いで醸成した。それに異を唱えることは難しいのだ。
No.683 文化芸術は、やはり必須だよ
テレビを観ようと思ったが、ニュースや報道系ワイドショーはコロナウィルス関連しか扱わない。ドラマも新しいシリーズは「近日放映」という予告だけでどの局も過去の再放送が主流。生放送のバラエティはネットで出演者と中継をつなぐもので、YouTubeみたいなもの。結局観るべき思いにさせてくれるものとは出会えない。
実際、心を安定させるためには過度に情報に触れないという処方も必要らしい。情報を遮断されれば不安は増すが、情報過多も不安を増す。その見切りは難しいのだけれども。
とはいえ、「Stay home」と言われて、何をしたらいいのか戸惑い、ついつい手っ取り早くリモコンのスイッチを入れてしまう世代の人間としては、情報に晒される以外に選択肢がほとんどない。
3・11直後、テレビはどの局もずっと被災状況を連日流し続けた。民放はコマーシャルを中止して「ACジャパン」のキャンペーンだけ流した。しばらく時間が経ってからようやくNHK教育テレビ(いわゆるEテレ)が通常放送を流し始め、驚くべき視聴率だったと言われている。
音楽や舞台、芸能や話芸が欲しくなる。4月11日のミューザでのコンサートをずっと楽しみにしていたのだけれど、案の定中止になった。それはある意味致し方ない。だけど、こういう時だからこそ広い意味での芸術が本当に求められるのではないだろうか。だが、非常事態にはそれが一番最初に姿を消される。休業補償が取り沙汰されても、文化芸術に対する補償は議論の外。 そんな中、ネットを使って本来上演する予定だった演目を無料視聴させてくれるものもあるらしい。収益を得ることは不可能だろうけど、でも、一市民としては有難いことだ。
この状態が収束したら、テレビの社会定位置も変化するかも知れないな。
No.682 人と人を遠ざけるウィルス
日曜日の朝、もう30年以上続いている番組がある。「関口宏のサンデーモーニング」(現「サンデーモーニング」)だ。
4月5日の放送で司会の関口宏が、感染拡大防止のためにコメンティターの間隔を広く空けた状況を説明し、「やりにくくなってますがしょうがない。コロナってのは人を遠ざけるっていう感じがあるのかな。」と漏らした。
これはとても言い得て妙だと思った。「Stay home」が推奨され、感染しない/させないために、できるだけ人との接触を避ける(80%接触削減!)ことが求められるご時世。文字通り物理的・心理的に「人を遠ざける」ことが唯一取り得る最善の対処法なのだから。
そして同時に、(関口風に言うならば)「コロナってのは世の中の矛盾を暴き出すっていう感じがあるのかな」。
港区の保育園で職員が感染した。園児80人が濃厚接触した恐れがあるとして健康観察をするらしい。でも、その保育士だって意図せずウィルスをもらってしまったわけだろう。今はそういう事態が引き起こっているのだから。
このような事態でも子どもを保育園に預けなければならない事情を持つ家庭もある。まして医療関係者だったり対策のために仕事を続ける人の家庭や、スーパーや公共交通機関で働く人、社会的インフラのために働く人たちとその家族であればなおさら。そしてそういうニーズがある以上、誰かがそれをカバーし、担いあう以外にない。まるで空気椅子の輪みたいに。
だけど、空気椅子の輪が成立するためには、人への信頼が鍵だろう。自分の体を預けきる相手に対する信頼がなければ、どこかでバランスが崩れて、輪そのものが成立しない。
すると、思考はまるでメビウスの輪のように最初に戻ってしまうではないか。「コロナってのは人を遠ざけるっていう感じがあるのかな」。
No.681 こたえのない問いが巡る日々
4月2日、川崎市は「市立学校の休業の実施について」を発表し、4月17日まで春休みが延長された。幼稚園はその翌日会議を開き、市立学校に足並みを揃えることを決め9日の始業式、10日の入園式をそれぞれ20日21日に延期した。ところが7日になって総理大臣が「緊急事態宣言」を発令し、期間を5月6日までと定めた。そこで再び会議を開き、始業式を5月7日に、入園式を8日に再延期した。この間、職員は日直を除いて自宅待機し、日直も10時から15時までの勤務にした。子どもたちのいのちを守るために、そして通勤する職員のいのちを守るために。
教会はどうしよう。12日にはイースターが巡ってくる。教会に集ってくる人たちのいのちを守るためにどうすれば良いのか。
まず、子どもたちが中心になる第一礼拝は「川崎市立学校の休業」に併せて12日19日の礼拝を中止にしていた。再開は早くても26日を予定していたが、緊急事態宣言を受けて更に延長されるだろう。
では第二礼拝とそれに伴う教会の活動はどうするべきか。宣言発令前の5日は礼拝堂の椅子の数を半分にし、椅子どうしも十分な隙間をつくって配列して礼拝を行った。ネット配信などに取り組む教会も多数あることは知っているが、わたしたちの場合、受信する側にそれを説明し準備してもらうには無理がある。役員会でもいろいろと悩みながら、しかし「礼拝を取り止める」という結論は選択しなかった。出席する側に判断を委ねたのだ。「おぉ、では無観客礼拝もあり得ますね」と笑い話が出てくるのが、マジで救い。
「Stay home 自分のいのちを守るために、自分の大切な人のいのちを守るために」と言われる。その通りだ。コロナにいのちを賭ける必要はない。
だが一方で思う。では文字通りいのちを賭けてでも行うべきことを、わたし自身は持っているのだろうか、と。
No.680 0.1ミクロンがもたらす変化
唐突なのだが、わたしは小さい頃ほとんど「外食」をした記憶がない。
父は大工で、一日中体を使って働いたらまっすぐ家に帰ってくる人。わたしの成長と共に彼の酒量も成長していったが、必ず家で夕食──と言うより晩酌かな──をとる。だから3人で外食という思い出が少ない。
ところがいつの間にかわたしは外食抜きに自分の生活を考えられない。そう自慢(?)できるほど、1週間の生活の中に1回(以上?)は組み込まれている。どうもわたしはそうすることでストレスを発散しているようだ。
ところが最近は「外出を控えろ」という。専門家会議からの提言も当初は「宴会自粛」だったのが、近頃は「飲みにも行くな」と、小さな、ささやかなストレス発散の機会にも×印が出される。外食に後ろめたさがつきまとう。
でも、わたしたちはそういうフェーズを迎えているということなのだろう。ウィルスがある日突然気まぐれで自己消滅でもしない限り、わたしたちは長い間このウィルスと共存していかなければならない。もちろんワクチンや治療薬が開発されれば劇的にその脅威を抑え込むことはできる。だがそれと共存する状態はそれでも続いてゆくだろう。大げさな言い方をすれば、生活や文化や風習の方をそういうフェーズに見合ったものにしてゆくことが始まった、ということなのかも知れない。
「みんなで、集まって」行う礼拝を、違う形に検討する教会もたくさん出始めた。これは単に感染症蔓延のための急場しのぎなのか、あるいはひょっとして「教会観」までも変更する萌芽となるのか、興味がわく。曰く「2千年の歴史」と豪語(!)してきた教界に、突如として現れた強烈な外敵。変えないリスクと変えるリスクのせめぎ合いから、どんなアウフヘーベンが起きるのだろう。
で、と。今日はどこで呑もうか。家or外? (爆)
No.679 可哀想な桜(2年続き)
19年春の桜は、花冷えが続いたせいか「まだ咲いている」と散々な言われようだった。今思えば昨年の異常気象をあの桜が密かに教えてくれていたような気がする。
20年の桜は今盛り。だけど今年は可哀想に愛でる人も少なそう。27日には東京都の公園が閉鎖され、有名な上野公園のさくら通りも立ち入りさえ禁止された。宴席の自粛はずいぶん前から通達されていたが、まさか「通るな」までエスカレートするとは。
そんな中、総理大臣のお連れ合いが芸能人などを含む友人たちと花見をしている写真が出回った。当然ながら予算委員会でこの件について質問が出て、総理大臣は「私的なレストランの庭で撮影したもので問題はない」「(花見自粛といっても)レストランにも行くなとは言っていない」と答えた模様。
更に食い下がる質問者に「冷静に、その時何について自粛要請が出ていたか知れば、問題ないことも分かる」だそうだ。
このかたは、本当にコロナウィルスの対策を推進しようというのだろうか。どうもそう思えない。東京オリンピックが中止になっては困るから「今は緊急事態ではない」と言い続け、1年延期が決まったらたちまち、手にした伝家の宝刀(緊急事態宣言=首相にとてつもない強権が与えられる)を抜きたくて抜きたくてしかたない、聞き分けのない子どものようにしか見えない。
春分の日を含む連休に自粛ムードが解けてしまい感染爆発につながったと専門家もどきは言う。そうかも知れない。だから下々は今日を含む週末の自粛を──しかも週末度に──迫られ、国民性としてわれらはそれを諾々と受ける。だが、とてつもない強権を持つ者たちは、「レストランは例外」「和牛券配るから」「ひょっとしたら魚介券も付けるから」と。
あまりにもバカにしている。今に桜からしっぺ返しを受けろ!
No.678 振り回されてきた証し
4月終わりに開催される定期教会総会の「議案・報告書」の原案作りが始まっている。4月第1日曜日の役員会で検討するためだ。
この資料の中に「年度の歩み」というのがあって、一年間の教会・幼稚園・牧師の関わる外部のことなどの簡単な記録を残している。だいたいは週報に記されている「集会の予告」と「お知らせ」から思い起こして書く。予告はあってもその報告は必ずしもないわけで、「記憶」というのが唯一の情報源だったりする(その意味では今の内閣以上に問題あり!かもね、破棄・改ざんする公文書さえない、ということだから(^^ゞ)。
振り返ると緊急対応の連続だった一年が見えてくる。台風があった、床上浸水があった、冬なのに例を見ないゲリラ雷雨があった、インフルエンザが蔓延した、新型ウイルスが世界的に流行した……。
不思議なことに、2月末頃から3月にかけて記憶が飛んでいる。ついさっき、いや「今し方」のことなのに、細かいディテールを思い起こせないのだ。
特に、「すべての学校に休校措置を求める」という政府発言があったあの夜、たまたま幼稚園の理事会の日で、園長・副園長・主任が揃っていたからそれが出来たのだが、すぐに対応を協議し、翌日一日(2月28日)で3月にやることを全てこなせる見通しを立てた。以後、あらゆるものが自粛・中止になっていった。その一つひとつが「あれ、どうなったんだっけ」と思い出せない。冷静・沈着に判断・決断してきたという自負はあるが、それ以上に自分も振り回され、自分で決めていたつもりでも思いっきり流されっぱなしだったということではないかと、改めて気づいたのだ。
自分の人生は自分が主人公──、そんな歌に励まされていた。だけど本当はその人生だって数多くの「思いがけない出来事」からつくられている。その上で「自分」という役を(主人公として)演じているのかも知れないな。
No.677 自由な心地よさ
幼稚園の卒園式は、在園生が参列しない形で無事に行われた。とはいえ、いつもなら保育証書をもらう練習を少なくとも1回は行うのだが、今回はぶつけ本番の子どももいる。自分たちの言葉を使った「思い出のアルバム」の替え歌もこれまで1回しか歌っていない。そういう中での式だった。
そうであれば、綺麗に見栄え良い卒園式ではなかっただろうとの想像はだれでも思いつくだろう。事実様々なハプニングはあったが、でもそれがなんだか良かった。ある程度の緊張感を自分を律するために保つのには意味がある。だがむしろ細かいことが整然と行われるより、自分で考え乗り切る、そして楽しむことができれば、それは最高の舞台に違いない。何より子どもたちは「卒園式」の緊張より、久しぶりに会った友だちと、久しぶりの幼稚園で、最後に思いっきり楽しみたかったし、実際みんなそうしていた。親子で一緒に登園し、「式」と名の付く時間を楽しみ、心にけりがつくまでお庭でみんなと遊ぶ、そこまでの一連の事柄全部が彼らの「卒園式」だったのだと思った。
この開放感、自由な心地よさを覚えていて欲しい。自由が制限される日が必ず来る。いや、もう既に来ている。その時オトナたちは自分の心を偽り何かと理由をつけて無理矢理納得し、時には立ち塞がる壁になっちゃうだろう。でも子どもたちにはそんな屁理屈は無縁だ。自由な心地よさ、心の底から信頼しあえる仲間と時間、それが適う地面さえあれば、彼らは必要なことを自分で決断し歩んでゆくだろう。その力はどんな壁でも突破するに違いない。
わたしたち皆がしみじみと「良かったね」を共有しているまさにその時、「緊急事態宣言」さえも発令できるような「新型インフルエンザ対策特別措置法」改正が行われた。十分な科学的データも統計的な積み上げもない中、市民活動が制限されて当たり前のような雰囲気が既に出来上がっている上に、だ。
子どもなら言うね。「さてどうやって突破しよう。なんだかわくわくする。」