川崎市内の市立学校は安倍総理のお願いをすぐには聞き入れず、3月4日から25日まで臨時休校、その後26日から4月5日まで春休みとなった。
所用で夕方街の中を歩いていると、買い物帰りらしい母と子が家路を急ぐ姿が、これまで以上にたくさん見られるようになった。しかもなんだか足取りが軽く見える。単なる直感──カウンターで数えているわけではないもの──なので本当のところどうか分からないのだけどね。そんな印象を受ける。
ひょっとしたら子どもが休校になったので、お母さんが仕事を少し早く切り上げて、子どもと一緒に夕食の買い物に出かけているのだろうか、などと想像した。そして、想像に過ぎないのになんだか心が温かくなった。もちろん買い物をして帰るのが、父と子どもであってもなにも問題はない。やはり心が温かくなる。夜道を子どもだけが塾の鞄を背負って急いで歩いているよりよほど幸せな空気に満ちている。
そうして思ったのだ。本当は夕方まだ暗くなる前に親と子が一緒に夕食の買い物をして帰る、それでも十分暮らして行ける社会じゃなきゃ、ダメなんじゃないか、と。
新型感染症のことが毎日毎日繰り返して取り上げられ、私たちの暮らす社会が、なんだかウイルスでコテンパンにやられてしまっている印象を受ける。これまで「日本人の美徳」(という価値観もどうかと思うが)とされてきた事柄が、ことごとくウイルスにやられてしまっていないか。
一体どれ程多くの隠れ感染者がいるか分からないが、でも、こうなったらしかたがない。この事態を冷静に受け止め、むしろ踏み台にして、本来あるべき社会や暮らしについて、ちょっとだけ落ち着いて考え直してみたい。そうしたら案外希望は見えてくるのじゃなかろうか。
こんな事態だからこそ「有事だ」「非常事態宣言だ」ばかりじゃなくてさぁ。
No.675 終わっちまった2019年度
幼稚園は政府の要請に素直に(笑)従って、2月28日(金)をもって2019年度を終えた。あとは13日の規模を縮小した卒園式と16日の終業式のみ。
もともと卒園を控える3月は登園日が少ないし、見た目立派な卒園式より日々の幼稚園を最後までたっぷり楽しませたいという思いから、あまりたくさんのことを予定しない。それが幸いして28日に最後の大きなイヴェントである「お別れ会」を行い、卒園生と在園生が──本来なら卒園式で行うはずの──コール&レスポンスを交わし、楽しく会食(!)して終わった。あとは大人たちが当日に向けて準備を進めれば良いわけだ。
そんな中、我が家は連休中に客を迎えたこともあって、冷蔵庫がほぼ空になった。通常勤務よりはゆるくなったといえども、時間が束縛されるわけで、食材はある程度買い込んでおくものだ。だけどこういう時期に大量の買い物をするのはちょっと気が引ける。運悪くそういう時期には必需品であるトイレットペーパーも切れそうになる。スーパーの棚が紙製品の場所だけ空になっているのに、だ。首から「買いだめ/買い占めではありません」という札でも下げようかしら。
ミラノのヴォルタ高校校長先生の手紙がネットで紹介されていた。秀逸なそのお手紙の一部を紹介したい。「(前略)この機会を利用して散歩をしたり、良質な本を読んでください。体調に不備がなければ家にこもっている理由はありませんが、スーパーや薬局に殺到しマスクを探しに行く理由もありません。マスクは病気の人に必要なものです。(後略)」。
先週も書いたが「漠然とした不安」は本当に人々の心を疲弊させる。不安は必ず不安を呼ぶ。恰もそこら中に「菌」がうじゃうじゃいるように思え、自分の周辺が「私以外全部ばい菌」にさえ見えるようになる。アホくさ。
ナイショだけど、遊びたくなったら教会学校においで!遊べるよ!
No.674 無為でいることは許されないのだな
幼稚園は1年のまとめと卒園に向けたスケジュールの中で、今年度の残り10日あまりを過ごしている。
21日には産業振興会館を借りて「小さな音楽会」を催した。各学年で打楽器の合奏と歌と2曲を発表する。「発表」と言ってもいわゆる練習を重ねて出来映えを際立たせるようなモノではない。音を楽しむ、ステージで自分を見てもらうことが嬉しい、それを実現するためのモノ。当然ハプニングもあり笑いもあり。子どもたちがみんないい表情をしている。
当日の欠席連絡も含めて都合8人がお休みだった。子どもの施設には良くあることだが、2月半ばからいわゆる「おなかのかぜ」の流行りが見られるようになり、その影響も残っていた。「新型コロナウィルス」騒動とは無関係。神奈川県は言ってみればその渦中にある(お隣には船が泊まったままだしねぇ)訳だが、今回開催を危ぶむ声は上がってきていない。
国を挙げて様々なイヴェントが相次いで中止・縮小されている。それが健全な判断なのかどうか私には分からない。人は「漠然とした不安」に弱い。「空気」を「読む」文化(?)の国なのだ。「漠然とした不安」を読んだら「不安」なのだろう。尤も今のご時世なら「空気」を「吸う」ことも危険かもね。
「発熱などの風邪の症状が出たら学校や会社を休んでください」と厚労省の「新型コロナウイルスに関するQ&A」にあるが、週末たまたま出掛けた品川駅はいつもと変わらぬ帰宅ラッシュ。幼稚園なんて子どもに「お休み」を勧告することは簡単だが教師に勧告することは、その一人の欠けをいつまで・どうやって補うかの見通しが立たなければ簡単ではない。だからこの「Q&A」もそのレベルだなぁと苦笑いするしかない。
いのちには限りがある故に、それはできるだけ無為でありたい。今回のことも単なる騒動ではなく、すべてのいのちを考えるきっかけであればと思う。
No.673 恩師と呼ぶべき一人を送る
こんなにも早くあなたが逝ってしまうのは、やはり寂しい。もちろんここ数年、あなたの体は切り刻まれ、杖をつき、足を引き摺り、動くこと自体辛そうに見えていたから、永遠の休息は神さまのご褒美に違いない。けど、残された者はやはり寂しいなぁ。
そんな体でありながら、でも私は不思議と、あなたの機嫌の悪いお顔を見たことがない。尤もあなたにお目にかかることなんてほんの僅かしかなかったのだから、ある意味当然かもしれないけど。でもお目にかかる度にあなたはいつも、あの壇上に飾られた遺影のままの笑顔だった。メガネの奥に、まん丸いいたずらっ子のような黒目が、いつもキラキラしていた。
お目にかかる少ない機会に、交わす話題のほとんどはあなたの最後の勝負のフィールド、幼児教育をめぐる様々なこと。制度や環境が目まぐるしく変化する中、人が育つこと、そしてその道は、そんなにコロコロ変わるはずはないわけで、だけどこの時代を生き抜くために制度に頼りそれを用いなければならないジレンマが、言葉の端々に現れていた。
以前あなたはストーン宣教師について講演してくださった。洞爺丸事故で遭難死する前に救命胴衣を日本人の若者に与えた宣教師。しかし突然僅か52歳でいのちを閉じられてしまった彼の意志を、残された思いを、その志の系譜に連なるわたしたちがどう知り、語り継ぎ、実行するか。系譜に連なるとはその問いの前に立つ、立ち続けることではないか、と。
はからずも、今あなたが去ってしまって、わたしたちには同じ課題が残された。あなたは、端からハシまで一本のスジそのものの教育者。しかも晩年の本当にわずか残された時間を、この私にもお裾分けしてくださった。だからいっそう寂しいし悲しいのだけれど、心から感謝します。
本田栄一先生、安らかに。
No.672 ちょっと話しがデカくなるケド
遠い南極の話し。
どうやらこの2月6日に記録上過去最高の気温を記録したらしい。これまでの最高気温は2015年3月24日の17.5度だったのが、南極半島にあるアルゼンチンのエスペランサ観測基地で18.3度が記録された。世界気象機関がこの情報を精査すると発表したが、どうやら記録は間違いないらしい。
世界を見渡せば、これまで考えられなかった規模の森林火災とその長期化や、猛烈寒波、そして台風をはじめとする災害の激甚化に目を奪われる。100年に一度だとか1000年に一度とか、そういう確率でのことが頻発していて、もはや気象現象は「異常」を通り越した感がある。
一言でいえば「地球温暖化」なのだろう。「原因を知りたがる性」があるわたしたちが「わたしたちの生活様式が地球規模に破壊的影響を及ぼしている」と総括することは、人道上のというかニンゲンの善性からとても意味があると思う。一方で、そういう総括を「科学的根拠がない」と言いたくなるのもまた人間性の発露だ。16歳の女性と米国大統領の対立は、事柄の抱える深刻さ以上に、人間性そのものが顕わになっているという点でも、対立の事実をしっかりと受け止める必要があるように思う(そうは言っても大統領の大人げなさに注目してしまうのは、私の嗜好・指向なのだけど)。
おそらく異常気象とか地球温暖化に、唯一の原因を見定めることは不可能ではないだろうか。考えられるあらゆる原因分子の中で、自分が「気をつける」レベルで出来ることなら、取り組むのに十分な価値がある。だがそれをはるかに飛び越えるような地球規模・宇宙規模の出来事に対してはどうする?
自然界は弱肉強食ではなくどれだけ現象に適合出来るかで進んでいく。強いから生き延びるのではなく、変化に対応出来るものが生き延びる。地球規模の変化に種としてのニンゲンはどう対応してゆこうとするのだろう。
No.671 不安がパンデミック
新型肺炎の話題が後を絶たない。様々な報道を聞きながら2009年に大流行した「新型インフルエンザ」のことを思い出していた。
幼稚園の年長組の子どもたちを連れて箱根の林間保育。その出かけた先でひとりの女の子が高熱を発症した。保健室に割り当てられた部屋でみんなとは別行動。職員も一人はその子の世話のため同室で居続ける。
開院時間の内にと仙石原に一軒だけある開業医を訪ねた。当該の女の子と保健室で一緒に過ごしている職員、そして園長車を運転するわたしの三人。医院にはかなりの患者がいたが、通常通り受付をして待っていた。するとしばらくして女医さんが「すぐに隔離!」と叫んでいる。わたしたち三人は医院の正面玄関から出て裏手に回り、裏口から病室へと通され、そこで待たされることになった。
仮に新型ということになると、彼女は当然、そして付き添った職員もわたしもいわゆる「濃厚接触者」ということで三人は経過観察処置になる。そうなればホテルに戻ったとしても今夜から明日のプログラムに戻ることは不可能だろう。今から川崎に戻るまでの間で、一緒に来た職員をどう動かすか、観光バスと園長車をどうやり繰りするか──。「隔離!」との声を聞いてから病室で待っている間の、それほど長くはなかった時間にも関わらず、頭の中はフル回転していた。
結局流行りの新型インフルエンザではなかったのだが、それでも彼女は以後も別行動となり、翌日は別の職員が運転する園長車で箱根登山電車強羅駅まで送り、そこまで迎えに来てもらった家族に引き渡したのだった。
今だから懐かしいと微笑んで思い返せる出来事。当の女の子もプログラムにほとんど参加出来なかったのに「林間楽しかった」と。でも武漢から帰国した人たち、帰国を待ちわびたそのご家族の心中は察するにあまりある。
No.670 ムズいけどね
隣地との間のフェンス工事が大体終了した。予定していた期間中強い雨が降って、隣地はぬかるみ状態のために、コンクリートを打っても安定しないだろうと思われる箇所を後日に残した。
昔テレビコマーシャルで「地図に残る仕事」というキャッチコピーがあった。確か大成建設のコマーシャル。大きなプロジェクトをいくつも手がける建設会社らしいコピーだ。そこまで大きくなくても全然良いのだけれど、いざ建物を建てるなら──「地図」はともかく、それは必ず歴史に残らざるを得ない──、築後何年それを使うつもりなのかを含めて、できるかぎり頭と時間とを使って取り組むべきだよなぁと、この頃つとに考えさせられている。
この教会が新築される頃、おそらく「バリアフリー」は最も先進的な取り組みだった。「教会こそバリアフリーを」だったのだ。だがそのバリアフリー路線のために、教会のグランドレベルは周囲の道路より低い。結果、内水氾濫がしょっちゅう起きる。
地境の設定も、都会ならではで隣地周辺どこも建物が建て混んでいるのだが、こちらが取り壊して更地になった時にしっかり測量したはずだ。なのにどうしてフェンスの土台が隣地に侵入したのだろう。施工管理の甘さが20年以上経ってのっぴきならない事態を引き起こしたわけだ。
つまり、未来にそうならないために、今できる最善のことを、出来るチャンスに決断してやらなければならなかったのだ。
100年を超える歴史を持ち、設立に宣教師が関わった教会を見ると、大概はその町の一等地に教会が建てられていたりする。宣教師をはじめとする先人たちの先見の明には驚かされる。宗教用語で翻訳すればこの「先見の明」こそ「篤い祈りが献げられた」と記されることなのだろう。
そういう思いを保って今を生きよう、今の仕事に向かおう。ムズいけどね。
No.669 25回目と9回目
阪神淡路大震災から25年が経った。四半世紀。震災後の人口が増えてゆく中で、体験をどう伝えてゆくかが課題だという。
岩手県の5つの教会幼稚園が連合して学校法人となって、毎年冬に学園の職員研修会を行っていた。25年前のこの日は研修2日目だった。朝から関西で大きな地震があったようだが、詳細は不明というテレビのニュースだった。時間の経過と共に、これまで見たことのないような風景が映し出された。高速道路が横倒しになり、鉄筋コンクリートのビルが倒れかかっている。永田地区では毛布を頭からかぶり呆然と立っている人が映し出された。しばらくして火の手が上がり、人々は──テレビの前の我々も──なすすべもなく燃え広がるのを見ていた。
3・11は、関東でも経験のないような地震となった。横浜の取引銀行まで出向いて、その帰り道だった。信号が止まった国道15号をとにかく急いで車を走らせ帰ってきた。
幼稚園では、この日を境に、これまでの避難訓練が無意味なのではないかと思わされた。近隣の小学校なども対応のガイドラインを定めたので、幼稚園もそれに合わせ新たに「防災のしおり」をつくった。このしおりの中に、あの日幼稚園の周辺がどうだったのか、できるだけ詳しく、園児の暮らしに関わる事柄に焦点を当てて綴った。いずれ体験したことのない職員が幼稚園に関わるようになるなら、その時何らかの標になればという思いだったのだ。
それでもその時咄嗟に動けるのかどうか、本当のところはわからない。すべてのいのちを守りきれる自信も、ハッキリ言えば無い。もちろん最善は尽くす。そして事柄が起きたら、その事柄に即してできるかぎりの手を尽くす。それ以外にないのだと改めて思う。
だからせめて、記念日は覚え続けよう。いつまで経っても。
No.668 心もおなかも温かい
年明け早々、幼稚園には賑やかな恒例行事がある。お餅つき。今年も10日に行った。稀に見る暖かい日だった。
大門に3基の竈、園庭の平らな場所に石臼が3基。道具小屋の前には湯沸かし専門の竈を設え、園庭タワー脇には木臼が1基。これで25臼の餅を午前中につき終える計画。つき手はお父さんたち。この日仕事を休んでくださったり半休を取ってくださった15名。バックヤードには「お餅つき」係のお母さんたち19名。鏡餅、伸し餅をはじめ、子どもたちの口に入るあん餅、きなこ餅、磯辺餅が次々につくられる。
教会と幼稚園のある川崎区小川町では町内会での餅つきが未だに行われている。餅つきの合間に運転手さんたちにも聞いてみたが、町内会は老人ばかりなので餅つきはやっていないという。近くの団地では続けているとも。してみれば、都会のど真ん中で町内会が機能していることも、餅つきという行事が保存されていることも、今となってはなんだかスゴイ事だ。
この季節は厄介な風邪や胃腸炎の流行期でもある。衛生上の理由でいちばんやり玉に挙げられるのも餅つき。それを大義に取りやめる例もたくさん聞く。今回聞いたところでは、形として餅つきはやるが、ついた餅は食べないと。じゃぁ何を食べるかといえば機械がついた食べる用の餅だって。まぁ確かに、一旦何かあったら主催者がすべての責任を引き受けなければならないわけだから、危険なことには手を出せないという判断も理解出来ないものではないが、それにしても、と思ってしまう。いろいろとやりにくい時代ではあるなぁ。
お父さんたちが力一杯杵を振るう姿を間近で見ている子どもたちの顔は幸せで楽しそうだ。今大切にしたいのはそういう幸せの連鎖だと改めて思った。だから何とかできる注意は全部払いながら、これからも続けてゆきたい。
楽しい美味しいが不幸せを呼ぶはずはないのだから…。
No.667 過ぎ去った年を振り返ると…
年末に幼稚園1階保育室と園児玄関の床張り替え工事が終わり、台風15号の床上浸水への対応が一段落した。床が新しくなったことで、部屋の使い方をもう一度みんなで考えることとなり、今後の保育環境に良い影響を与えてくれそうでもある。
幼稚園の2台のバス駐車場としてお借りしていた隣地がマンションデベロッパーに売却された。冬を前に古い建物が完全に除却され、幼稚園と隣地との間のフェンスが一部隣地に侵蝕していることが判明した。年明けにはこれに対応する更新工事を行わなければならない。
12月2日には、冬ではほぼ記録にないような集中豪雨に見舞われた。子どもたちを通常通りお迎えや帰りのバスに乗り込ませた辺りで、例によって排水溝の逆流が始まり、あっという間に冠水。エレベーター地下ピットが水深1メートルに達するのに20分もかからなかった。この水没からの復旧に徹夜の作業となった。
この場所で新しく建物を建てて、幼稚園と教会が思いを新たにして20年を超える。20年前には想像もつかなかったようなこと、あの時けりをつけられないままで来たこと等々が、20年を経て大きな問題となって突きつけられている。2019年はそういう年だった。
わたしたちを困惑させるのは、こういうことが2019年だけの特異な例では終わらないだろうという深刻な思いが頭を過ることだ。異常気象が通常気象現象となるなら、これからも水害は避けようがない。そしてこのままここに建ち続ける限り、わたしたちに出来るすべては「対症療法」でしかないということ。
過ぎたことをクヨクヨするのはシャクだが、これを希望に変えるにはなかなかのエネルギーが必要だ。なんせ信仰が薄いものでして…バキッ!!☆/(x_x)