「勇気が必要なのは、意見をまくしたてて攻撃的になることなく、別の道を見つけるためです。」。バチカン史上初のイエズス会出身、初のラテン・アメリカ出身の教皇フランシスコの来日は大きなニュースだった。滞在中毎日ほぼトップで動向が伝えられた。わたしも「『幸福』と『人生の意味』について」というタイトルの教皇の本を読んでみた。その中の一節が冒頭の言葉。
25日に東京ドームで5万人がミサに与ったという。その前後いろんな人から「先生は行かないのか?」と尋ねられた。むしろ川崎でいつもとおんなじように仕事している方が不思議だったり奇異に見えたのだろう。「ま、オトナの事情があってね」とはぐらかした。
尤もフランシスコ教皇は「オトナの事情」による平和への妨げを最も警戒しろと言うに違いない。長崎で教皇は「聖フランチェスコの祈り」を引用したという。私たちの第一礼拝でも毎週祈られている。それは「わたしを平和の器とならせてください」という言葉で始まる。大所・高所からの「平和」ではなく、わたしが用いられるわたしの周囲からの平和がいつか世界を変える。だから、わたしを器にという祈り。
結局わたしたちは「オトナの事情」という極めて便利な言葉で自分自身をいつも正当化出来る。あるいは逆に、そんな「オトナの事情」を打ちやぶるためにはもっと力が必要だと思ってしまう。それに見比べれば自分の持つたった1票の投票権なんて小さすぎて無意味だと絶望さえしてしまう。
だが教皇は「勇気が必要なのは闘うためであり、必ずしも勝つためではありません。」(前掲書)と言う。攻撃的な力を持つ必要はない。打ち負かす必要もない。別の道を見つけるために、今いるところから立ち上がる勇気があれば良いのだ、と。
使い古された「グローカル」。再びいのちを吹き込まれたようだった。