先週「歌謡曲ウィルス」という三上知恵さんの言葉を紹介した。その中に「その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。」と書いたが、その週の半ば、20日の水曜日にこの現象が再発した。それがなんと驚くべき事に(?)その日頭の中を流れたのは聖歌498番「歌いつつ歩まん」だったのだ。そして気がついた。この日、つまり2月20日は瀬谷重治牧師の召天日だった(1988年)。
瀬谷重治は秋田県横手にある秋南教会の牧師。生涯をその教会に捧げ尽くした人。秋南教会は横手中学に英語教師として赴任したM・M・スマイザーによって形作られその働きを受け継いだのが瀬谷。瀬谷は明治学院で神学を学んだので旧教派的には長老派だが、スマイザーの個性かどうか、私が幼少の頃はホーリネス教会のような礼拝だった。だから礼拝や祈祷会では聖歌もたくさん歌った。そんなこんなが心理の奥底にあってか、この日は目覚めた時から(あるいは夢うつつの時から既に)「歌いつつ歩まん」の日だったのだ。
そういえば母は家事の間よく聖歌や賛美歌の鼻歌を歌っていた。父が病院を退院しその足で施設に入所したので、思いがけず一人暮らしが始まった今もたぶん誰に遠慮もせず鼻歌を歌い続けているのではなかろうか。
聖歌になじみのない方もおられると思うので、498番の歌詞を記すとこうなる。「主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみもとに 荷を降ろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を」。牧師である者がこんなことを言うのもナンだが、書き写して恥ずかしくなるほど信仰的! ただ正直に告白(?)すると、わたしは間違いなくそういう環境で生まれ育ってきたのは事実なのだ。
歌詞を読み出したら、瀬谷の歌声まで耳の底に響いてくる。ちょっと低いよく通るハリのある声だった。