やはり総理の頭の中は「自助・自己責任」前提だったのだな。
27日の参議院予算委員会で、生活に苦しむ人たちへの対策を問われた総理は「政府には最終的に生活保護があり、セーフティーネットを作っていくのが大事」と答え、定額給付金再度給付の気持ちはないことを改めて明言した。求められたのはおそらくもっと実効的な政策だったろうに。
だが、生活保護を受けるためのハードルは高い。総理流の「まず自助」が出来なくなったら家族親族などの「共助」に責任追求される世界でも類を見ない三親等までこの国ではその責任を負わされているのだ。三親等といえばわたしから見て曾祖父か曾孫、叔父伯母、甥姪だ。ただでさえ少子化・核家族化が進む中、「親族共同体」どころか兄弟関係だって構成員が少なく希薄になっている中、民法上の扶養義務を生活保護申請要件に当てはめる例もたくさん見られるという中で、「最終的に生活保護」が決してセーフティネットにはなりえない事例を挙げるに事欠かない。なのに総理はそこに拘泥する。
大体、保護を受けなくてもよい状態を自己責任で創り出せるなら問題はない。コロナの影響を受けて収入が激減した人、仕事を失った人、そもそも罹患した人に一体どんな「責任」があったのか。たとえそういう状態になったとしても安心して暮らしを立てられるような政策を施さない政府にこそ「責任」はあるのだし。だが総理の答弁にはそんな思いは欠片も感じられない。
確かに、主権者たる国民が国家権力の暴走をとどめるためにこそある「憲法」に国民の義務(とにかく「公」に奉公する国民像)をどうしても書き加え改悪したがる人たちの考えそうなことだ。
これを他山の石としよう。わたしたちだって下手をすれば、あらゆる事をコロナのせいにして逃げることが出来る。普段なら後ろめたいことさえ、これを持ち出せばなんでも許されてしまいそうな今だからこそ。