ネットを使った授業なんてちょっと前までは際もんだと思っていたのだが、こんな社会情勢の中ではそれなりどころかけっこう重要な地位を得始めている。我が家の大学生や専門学校生も授業がネット上で行われるようになった。非常事態宣言が一部で解除され、おかみから「新しい生活様式」まで発表され、「会議はオンライン」「名刺交換はオンライン」などと推奨されてもいるし。
この地域で言えば川崎小学校も、児童たちのケアに心を割いておられる様子が情報メールなどで伝わってくる。このままでいることも再開することもどちらをとっても厳しい状況だ。
ただ、「学校に通えない」という状況は今回が初めてのことではない。小中学校でも、あるいは幼稚園でも、そういう事情を持つお子さんはこれまでもいた。そういうお子さんの支援のためのフリースクールもあちこちにある。文科省も「学校だけでなく民間教育施設での学習を支援し、児童生徒の自立を目指すべき」と(2017/4/4)しているし。
何が言いたいのか。中心に正解があって周縁には問題ばかりがあるというより、現実は逆だったのではないか、ということ。教育環境の話に限ったことではなく、周縁(つまり「ボーダー」)ではずっと前から課題があってその課題に対して地道な取り組みが進められてきているのだろう。何故なら周縁とは「つねにそういう状態にある」ということなのだから。
新型感染症の対応を巡って明らかになりつつあるのは、「本音と建て前」とか「中央と周縁」とか「陰と陽」とか、兎角2分論的に整理してそれを「合理的」として済ませてきた事柄が、それは単なる問題の先送り、あるいは単に直視しない選択だったのではないかというこの国の・我々のこれまでの姿勢だ。
そしてもしこの先に希望が沸き起こるとしたら、そういう整理で済ますことこそが問題だったと直視するところから、かも知れない。