先日、市民運動を担っている方々とお話しする機会があった。
世の中新型感染症の影響でどんなプライベートな会合でさえ開催することが困難な状況に追い込まれている。川崎教会も教会総会を書面表決で行わざるを得なかったが、それは市民運動にとっても同様で、しかも運動体にとってはみんなで集まって話し合ったり行動したりするのが生命線であるが故に、事態はより深刻なのだ。
その深刻さを象徴したひとつの出来事が先日の東京都知事選挙だった。これまでのいわゆる「選挙運動」なるものがほぼ出来ない中で、だからこそいわゆる「組織票」が結果を決定づけた。圧勝だった。対抗する立候補者の訴える内容は決して悪くはなかったし、こういう状況にもかかわらず多くの聴衆が詰めかけてもいた。だがそういうことが「結果」に影響を与えなかった。
つまり、本当は届いてほしい人たちに思いが伝わらなかったのではないか。しかも伝えるチャンスを大幅に削がれた中では、そもそも手段を全部もがれてしまったようなもの。市民運動にとって寄って立つ根幹が問われているのではないか。そんなことを語り合ったのだった。
そういう会話を交わしながら、でもなんだかわたしはその話題に既視感を持っていた。そして気がついた。「訴える内容は決して悪くはない」のに「本当は届いてほしい人たちに思いが伝わらない」のは、なぁんだ、プロテスタントキリスト教会がこの国で150年も味わい続けている現実ではないか、と。
「コロナの影響」などと声高に叫ばなくても、教会はずっと以前からそういう状態だ(もちろん今回のことで更に加速はしたけど)。高齢化で後継者も育っていないのも今に始まったことではない。だけど、教会は続いてきた。人の力ではないからだ。
なんだ、希望はずっと足下にあったのだよ。青い鳥みたいなものだね。