3月11日はもとより、その日付が近づくとテレビやラジオは一斉に「東日本大震災10年」を特集した番組になった。
わたしたちは10年という単位を一区切りにする習慣がついているから、震災も節目を迎えた感覚になる。だが今年2月13日には福島沖を震源とするあの震災の余震とみられる大きな地震が起こった。マグニチュード7.3、最大震度6強。地球のメカニズムには区切りも節目もない。
福島第一原子力発電所の爆発事故がなければ福島県の浜通りだって地元の人たちが復興に向けて動き始めていただろう。余震はたちまちあの災害を思い起こさせ、人々の心に警戒感を生む。あれほどひどいことはゴメンだが、災害が風化されてしまうのもまた困る。余震はイヤだけど必要なこともあるかも知れない。だが、原子力発電所はもうどんな事故も故障も起こってはいけない、起こしてはいけない。廃炉が何年かかろうとも、そして経費がどれだけかかろうとも、国が責任を持って担い続けなければなるまい。
税金が投入されることはイヤだというムキもあるだろう。だが、わたしたちには「原発こそコストが安い」「原発こそクリーン」という言葉を信託した責任がある。そしてその責任は残念ながら原発事故被災者/被災地にもある。「税金を使うのがイヤ」だったら、今なお原発を推進する政治家どもを信託することをまず止めるべきだ。特に、自分が原発事故被災者/被災地でないのならなおさら。せめてそうでもしなければ、ある日突然故郷を追い出された人たちが贖われることはない。そうしたからといって贖われるかどうかも自信はないのだけれど…。
わたしたちは、償いきれないことをしてしまったのだ。これまでのすべての人類と、これからのすべての人類に対して。だが、償いきれないことと償わないこととは違う。10年目に、改めて思う。
【3月定例役員会・主な審議事項】
(1)コロナ対策3-4月の教会 |
3月21日まで延長された主な理由は医療の逼迫なので、教会の対応はこれまでと同じとする |
(2)教会員の異動について |
3月31日で転出予定1名、別帳への移帳希望が1名 |
(3)教会総会について |
現任役員が転出予定、次点第一位が移帳希望なので、次点第二位を役員に任じるが、二位は同数2名なので、総会において2名から1名を選ぶ選挙を提案することとした |
(4)イースターについて |
合同礼拝とし、たまごを50個CSで当日茹でる |
詳細は次週教師会に委ねる |
(5)聖餐式について |
ホスチアとポーションによる聖餐式をしばらく続けることとするが、毎回丁寧な説明が必要 |
1セットを補充する |
(6)教会会計について |
今後の決算見通しと、総会で決議すべき点について資料をもとに協議した |
(7)その他消息等略 |
No.729 持続可能な組織を
先日、町内会や様々なボランティアで世話人をしてくださっている方たちといろんな雑談をした。その中で小川町には子ども会が町内会とは別組織で存在していたが、数年前に町内会が吸収して今はひとつの組織になっていることを知らされた。理由は様々あるが、別組織でも世話をし働く人が同じだということが原因のひとつらしい。さもありなん。そしてこれは別世界の話ではなく、キリスト教界も同じ問題を抱えている。
最近頓に「SDGs(エス・デー・ジーズ)」という言葉を耳にする。ラジオなどでは1週間に亘って特集が組まれたりもしていた。「持続可能な開発目標」などと訳される。2015年9月の国連サミットで採択され、加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標(「Gs」つまりゴールズ)を指す。17の目標に169のターゲットがあり、さらにターゲットの下に232の指標があるらしい(詳しくはwebで)。今年はゴールまでのちょうど3分の1を迎えたわけで、そのせいで「SDGs」「SDGs」と叫ばれているのかも知れない。
サスティナブル=持続可能。町内会にしてもキリスト教界にしても組織とは究極的に持続可能であることが求められる。つくった以上、続けなければならないわけ。キリスト教界に限っていえば有り余るほど人材があったことなどほとんど経験ないわけで、担い手不足は永遠の課題。とは言えやはり戦後ブーム世代がどんどん天界に移られて深刻の度合いはさらに増してはいる。打つべき手もなかなか見いだせない。
でも、そんな経験知こそが案外今社会から求められるかも知れない。人口減少に拍車がかかり社会全体の担い手がどんどん減る中、「国」という組織、「地域」という組織をこぢんまりさせながらも持続してゆく知恵。
教会がいつまで存続可能かを真剣に問うたら(恐)…祈るしかないさぁ。
3月21日の礼拝
復活前第2主日 主題「十字架の勝利」 |
小林充牧師最終礼拝 |
第一礼拝 9:30~9:50 |
聖書 マタイによる福音書 20章20-28節 |
おはなし 何を願っているんだろう |
担当 滝澤貢牧師 |
第二礼拝 10:30~11:45 |
聖書 |
旧約聖書 創世記 25章29-34節 |
使徒書 ローマの信徒への手紙 8章1-11節 |
福音書 マタイによる福音書 20章20-28節 |
交読詩編 118編1-9節 |
賛美歌 賛美歌21から 303番 418番 ほか |
説教者 小林充牧師 |
説教題 あなたの王座の左右に |
礼拝後の予定 CS教師会 |
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています |
No.728 「「人」として生きる」ことが問われる
なんだかなぁな記事がインターネットに出ていた。
「リスクモンスターは2月19日、第8回「離婚したくなる亭主の仕事」の調査結果を発表した。」というもの。20~49歳の既婚女性600名を対象にインターネットで行われたらしい。
これによると「夫の仕事に対して不満がある」人は43.0%、夫の年収が低いほど妻の不満が高くなる傾向がうかがえたとか、およそ10人に1人(11.5%)が「夫の仕事が原因で離婚したい」と考え、500万円を境に離婚意識に差が出ているとか、年収別に見ると「給料が低い」は「300万円未満」では9割以上、600万円を境に給料に対する不満の割合は半数以下、年収1,000万円以上では0%だとか。思わず吹いたのが「「テレワークが少ない」という不満よりも「テレワークが多い」という不満の方が多くテレワークによって夫が家にいることに対して不満を抱えている様子が窺える」だって。
これが何を示そうとしているのだろうか。アンケートの結果だけが記されているわけで、では何が問題でどうすれば解決できるかは示されない。政策で既婚男性が皆最低年収600万以上になるようにすれば解決なのか、年収がどれだけあってもテレワークで家にいるだけで問題になることを「Withコロナ」の中どう解決するのか、出来るのかもわからない。
一方これとは真逆に見える「孤独・孤立問題」で内閣府に対策室が設けられたという。孤独は人格に大きく関わる事柄だと思うから単に善悪で判断してはならない気がするが、孤立は文字通りそこにさしのべるべき手がないもしくは見えていない事が問題なのだろうから、確かに政策的課題ではある。単純に人と人とが一緒に暮らしていれば良いということではどうやらなさそうだというのが、先のアンケートから読み取るべき事柄かも。
やはりコロナが問うたのは「「人」として生きること、とは」だったのだ。
3月14日の礼拝
復活前第5主日 主題「主の変容」 |
第一礼拝 9:30~9:50 |
聖書 マタイによる福音書 17章1-13節 |
おはなし 目がくらんだ |
担当 滝澤貢牧師 |
第二礼拝 10:30~11:45 |
聖書 |
旧約聖書 出エジプト記24章3−11節 |
使徒書 ペトロの手紙Ⅱ 1章16−19節 |
福音書 マタイによる福音書 17章1-13節 |
交読詩編 145編1-13節 |
賛美歌 賛美歌21から 1番 512番 ほか |
説教者 滝澤貢牧師 |
説教題 失敗するわたしを捧げる |
礼拝後の予定 CS教師会 |
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています |
No.727 思い起こしたこと
先日車を運転していたら、あちこちでずいぶんと梅の花が咲いていることに気がついた。教会の周りには梅の木がないので気づかなかった──つまりわたしもずいぶんと「外出自粛」していたのだと改めて思ったりもした。
そのルート上に梅の花に混じってコブシが咲いている。今年はやはり暖かいのかも知れない。そして足利市の山火事。これらのことが頭の中で重なって、ある風景がありありと思い出されたのだった。
岩手県・遠野市に住んでいた頃、仕事のために週一度汽車(!)を使って盛岡まで出勤していた。夏場は車で通うのだが、冬場は汽車を使うことが、出勤を認めてくれた教会員の定めた唯一の条件だった。遠野駅から教会に向かって歩く道の延長線上にある城山の中腹に、春になると一際早く白い鳥が群がっているように見える大きな木があった。それがコブシ。周りは未だ緑にも染まらない中、唯一立っているコブシの木は凛として清々しかった
その通勤ルート上に、大規模な山火事が発生したことがあった。今回のように数日燃え続けたのだった。そんなことがすっかり記憶から消えたある寒い冬の日、車窓に広がる山肌に、まるで等高線のように点々と点線が見えた。最初はなんだか良くわからなかったのだが、よく考えてみるとあの大規模な山火事があった斜面に新しく植林した跡が斜面が真っ白に雪に覆われて等高線のような点線になっていたのだ。
山火事を引き起こしたのは人間だったわけだが、その被害を止め、再生へと動かすのもまた人間の業だった。等高線はその証明。それがわかった瞬間、わたしは感動していた。厳しいばかりの冬ではあるのだが、春にむかう冬の寒さには、北国人なら誰でも胸に持つ希望でもある。厳しい現実と、にもかかわらず降り注ぐ暖かい日差し。自然の力と人間の業とのせめぎ合いと調和を、そこにまざまざと見た思いがしたからだった。