映画監督の三上智恵さんが神戸新聞にコラムを連載し始めたが、その第一回目がなかなか面白い。要約すると、彼女の頭の中にはいろんな歌謡曲がエンドレスで流れるらしい。これを彼女は「歌謡曲ウィルス」と名付け、まるでヘルペスのように弱ったり暇になったりすると「ムクムクと表出し、どの曲かまわず頭の中にガンガン鳴らす」のだという。
ガンガンというほどではないが、私もいろんな歌(曲)が頭の中でエンドレスに流れることがある。その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。
このコラムで面白いのは「このウィルス保持者は、もしかすると昭和のテレビ世代限定かも知れない」という洞察だ。どういうことか。昭和のテレビではいわゆる歌謡番組が多かった。例えばTBSで1978年1月にスタートし、およそ12年間にわたって放送されたザ・ベストテンはその代表かも。毎週ランキングで示され、歌手がスタジオやコンサートライブの会場からその曲を歌った。ジャンルは広く、自分の趣味ではない曲や取り立てて好きではない歌手の歌でも流れるわけで、いつの間にかお門違いの歌のメロディも歌詞もすっかりすり込まれたものだ。そういうバラエティ溢れる様々な曲が、何かの刺激によって頭の中でスパークするわけだ。良くわかる。「今の若者は好きな曲だけ選んで聴くから、われわれのように、たとえ好みは違えど「襟裳岬」は全員歌えるという共通体験がないだろう。」と。
マツコ・デラックスが同じようなことを言っていた。黒柳徹子さんはベストテンでステキで奇抜な衣装を毎回着ていたが、それが出演者の責任だと語っていたと。「テレビが元気だったステキな時代を生きてきたのよ」って。
マスメディアの存在意義が厳しく問われている。「お茶の間」が消滅した今、テレビももはや古いメディアなのか。淋しくもあり淋しくもあり。
No.720 「させていただいている」という逃げ
「川崎教会の牧師をさせていただいている滝澤です。」。唐突だが、このようにわたしが自己紹介したら、皆さんはどう思われるだろうか。問題は「させていただいている」という表現だ。
日本基督教団で牧師になるために受けなければならない「教師検定試験」には文字通り神学に関するテストもあるが、根底で問われているのは知識ではなく「召命感」のようだ。牧師として立つということは神から召されているという信仰無くしてあり得ない(?)から。だから「牧師」とは「神が立てた」のだという意味で「(神に)させていただいている」という思いが含まれるのかも知れない。だがわたしは絶対に「させていただいている」とは言わないだろう。わたしなら「川崎教会牧師の滝澤です」と言うに違いない。
この「させていただいている」という表現を、近年頓に目にし耳にする。この表現のキモは相手の許可があるかどうか、許可が必要かどうかだ。まぁギリギリ牧師は勝手には出来ないわけで、神の許可(?)あってのものだが、でも結局自分がやりたかったのだろう。あるいはそれしか出来なかったのだ。その現状の責任を「神」のせいには出来ないはず。信徒や教会に迷惑をかけ続ける牧師がいたとして、「それは任命した神が悪い」なんて論理にはならない。悪いのは神ではなくそいつだ。職務は委ねられたものだ。だがその職務を遂行するのはあくまでわたしだ。だから責められるとしたらわたしが負わなければなるまい。その覚悟があるなら「させていただいている」なんて言う逃げは卑怯だ。
二度目の緊急事態宣言の会見で1分に1回「思います」を連発する首相もどうかと思うよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきたいと思います。」ってナニ? 最悪。リーダーならせめてこう言おうよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきます。」ってさぁ。やるのは君だろう??
1月17日の礼拝
降誕節第4主日 主題「最初の弟子たち」 |
第一礼拝 9:00~9:30 |
聖書 イザヤ書45章12節 |
おはなし 手造り |
担当 武田直美 |
第二礼拝 10:30~11:45 |
聖書 |
旧約聖書 エゼキエル書2章1-3章4節 |
使徒書 ヨハネの黙示録10章8-11節 |
福音書 マタイによる福音書4章18-25節 |
交読詩編 40編6-12節 |
賛美歌 賛美歌21から 402番 516番 ほか |
説教者 滝澤貢牧師 |
説教題 人を用いる |
礼拝後の予定 ぶどうの会・役員牧師館内覧 |
※コロナ対策のため短縮礼拝です |
1月定例役員会・主な審議事項
(1)1~2月コロナ対策について |
現在の対策以上に出来ることはないので継続するが、緊急事態宣言が発令される/された時は臨時役員会を開催して対応を検討する |
(2)牧師招聘手順 |
牧師館の修繕に関して、大工の高井さんと一緒に17日礼拝後にチェックする |
(3)年末年始の教会行事についての評価・反省 |
特別なことは何もしなかったが、礼拝が出来たことを感謝 |
クリスマス礼拝に48名、イヴ礼拝に20名参加 |
(4)その他消息等略 |
No.719 年末年始の風景
我が家の子どもたちが皆帰ってきて、年末年始は6人+2匹の賑やかな時間を迎えた。川崎で過ごす最後の年末年始でもあり、子どもたちも自分の生活に区切りをつけ、残した荷物などを処分する必要もあった。
コロナ禍で迎える初めての年越し。街中到る所でこれまでとは違った過ごし方をしなければならない。なんだか不思議な感覚だ。
お向かいの浄土宗教安寺。檀家さんやご近所さんが集まって除夜の鐘をつくのが恒例。だが今年はコロナのために一般の鐘つきは無くなった。代わりにご住職が「数回」鳴らすという。聞こえたのは3回だった。みんなの煩悩がずいぶん少なくなったようだ。ラ・チッタでは新年と共に何か鳴り物があったが、今年はそれもない。新春福袋が人気の珈琲チェーンなども、今年はネット応募の抽選になったし、長い行列が毎年の風物詩だったヨドバシカメラの新春初売りも店頭販売は中止になった。我が家の犬たちの元日初散歩で見るチッタの通りも、日常とそれほど変わらなかった。普段ならたくさんの福袋を抱えている人たちが多く見受けられたが、そうでもなかったのはひょっとして元日休業が少し増えたからかも知れない。
川崎・鶴見地区も、地区委員が何度も協議を重ねた上で元日恒例の「地区新年礼拝」を今年は取り止めた。例年80〜100人程度が集まった礼拝だ。
14年間一度も出かけたことはないが三が日で川崎と言えば毎年全国第二位の参拝者を記録する川崎大師。ホームページを見る限りマスク・消毒以外特別な記述はなく、例年通り参拝者を迎える模様。一瞥して例年と変わらない越年の様子が元日のテレビで流れていた。ひょっとしたら違わなかったのはここだけだったのかも知れない。
そんなこんなで大晦日の深夜、我が家では「なんだか年越しという感じがしないねぇ」との声。そういうことなんだな、と改めて。
1月10日の礼拝
1月10日の礼拝 |
降誕節第3主日 主題「イエスの洗礼」 |
第一礼拝 9:00~9:30 |
聖書 詩編119:105 |
おはなし ともしび |
担当 黒木恵美子 |
第二礼拝 10:30~11:45 |
聖書 |
旧約聖書 サムエル記上16章1-13節 |
使徒書 ローマの信徒への手紙6章12-23節 |
福音書 マタイによる福音書3章13-17節 |
交読詩編 2編1-12節 |
賛美歌 賛美歌21から 510番 499番 ほか |
説教者 滝澤貢牧師 |
説教題 心によって見る |
礼拝後の予定 CS教師会 |
※コロナ対策のため短縮礼拝です |
1月3日の礼拝
降誕節第2主日 主題「エジプト逃避」 |
《川崎教会新年礼拝》 |
第一礼拝 冬休み中(再開は1月10日) |
第二礼拝 10:30~11:45 |
聖書 |
旧約聖書 エレミヤ書31章15-17節 |
使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅱ1章3-11節 |
福音書 マタイによる福音書2章13-23節 |
交読詩編 70編2-6節 |
賛美歌 賛美歌21から 472番 356番 ほか |
説教者 滝澤貢牧師 |
説教題 未来には希望が |
聖餐式執行 配餐 谷戸久美子、松島美一 |
礼拝後の予定 1月定例役員会 |
※コロナ対策のため短縮礼拝です |