11月1日の礼拝

降誕前第8主日 主題「堕落」
川崎教会永眠者記念礼拝
第一礼拝
 聖書 創世記6章15-22節
 おはなし もういちど
 担当 滝澤理子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 イザヤ書 44章6-17節
  使徒書 ローマの信徒への手紙 3章21-28節
  福音書 マタイによる福音書 23章25-36節
 賛美歌 賛美歌21から 529番 575番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 神を証しした人
 聖餐式執行
 礼拝後の予定 墓前礼拝(12時30分教会発・厚木霊園)
※コロナ対策のため短縮礼拝です

No.709 Department of Justice

「Department of Justice」って書いてある

 アメリカ合衆国司法省がGoogleを日本で言うところの「独禁法」違反で提訴したというニュースが新聞やテレビのトップ扱いで流れた。1998年にマイクロソフトを提訴して以来約20年ぶりの大型提訴だという。
 そのニュースを見ながら、私は全く別のことに目が奪われた。「米国司法省」ビルがアップされたその入口にあるプレート。そこには「U.S. Department of Justice」と書かれてあったのだ。
 いや、司法省と翻訳されているからまるで裁判所のように思えてしまうが、むしろここは法務省だ。行政機関。だからこそプレートには「Department」と書かれているのだ。ところがこの「Department」を見ちゃうと、わたしの心にまず浮かぶのは「百貨店=デパート」だったりする。しかもそれに続いて「Justice」とまで書かれている。いや、これだって何もその通りだけど、Justiceといえば当然のように「正義」とか「公明正大」とかがまず浮かぶのであって、「司法、裁判、司法官」等をイメージはしにくい。だからあのニュースで目を奪われてしまったわたしは「U.S. Department of Justice」が「へぇ〜、【正義】のデパートねぇ」という、頓珍漢な奴。
 頓珍漢には違いないが、せっかくだから少しだけ調べてみた。米国司法省の義務は「国民の利益を守り、公正で公平な権利を保障すること」だという。このところ我が国では、総理大臣がご自身のポスターにわざわざ「国民のために働く」などと書かなければならないほど、政党も内閣も(政治家も)「国民のためには、働かない」組織になってしまっていたわけで(いや、オイラが言うんじゃないよ、総理ご自身がそう言ってんの!)、行政機関の本来の義務が「国民のため」と明記されている米国をちょっと見直したりもした。
 まぁ前総理は「(総理とは)森羅万象をつかさどる者」と述べたあたり、ハァ?と目がテンになったんだけどね(ちなみに訂正されてないよ)。

10月25日の礼拝

降誕前第9主日 主題「創造」
第一礼拝
 聖書 創世記 6章1-8節
 おはなし パートであることを忘れちゃった
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 箴言 8章1、22-31節
  使徒書 ヨハネの黙示録 21章1-4、22-27節
  福音書 マタイによる福音書 10章28-33節
 賛美歌 賛美歌21から 356番 579番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 恐れるな
 礼拝後の予定 特になし
※コロナ対策のため短縮礼拝です

No.708 身体性の回復を

 2015年12月、野村総合研究所がイギリス・オックスフォード大学と行った共同研究で「10〜20年後に日本の労働人口の約49%が就いている職業において、AIに代替することが可能との推計結果が得られた」と発表。「約半分の仕事がなくなる」だとか「どの職種がなくなり、どの職種なら生き残る」という分析が多数流れ、騒がれた。

 49%という数字が衝撃的だったことは確かで騒がれた必然もわかる。だけどやはり「人」「コミュニケーション」を全く不要とする職種なんてそんなにないわけだから、衝撃的な数字が現実になるとは思われなくなっていった。

 2020年、コロナの時代になって「がんばるなニッポン」が象徴するライフ・ワークスタイルが始まった。ICTが活用され働き方が変わるのではないかと期待もされたりする。通勤が不要なら環境の良い地方で暮らせるみたいなことがコロナの暗雲漂う中でちょっとした明るい話題にもなっている。

 だけど、5年ほどの期間をおいて引き起こされたこの二つの出来事は、実はとても関連しているように思えてならない。

 リモートでする仕事なんて、それこそAIに代替されるのではないのか。社会全体がコロナの影響を受けているのは事実だが、実はコロナが、やらないこと・やれないことの「口実」に使われているのではないのか。

 ある物流会社のCMコピーに「出来る出来ないの話しはしない。どうやったら出来るのかだけを考える。」というのがある。コロナの時代に「やらないこと・やれないこと」の理由は掃いて捨てるほど溢れている。だが、だからこそ「どうやったら出来るのか」をまず考えなければならないだろう。口実や言い訳にしてはならない。

 宗教はAIに代替出来ない。それはやはり「人」「コミュニケーション」そのものだからだ。身体性──その回復、復権こそ今一番必要に思うのだが。

10月18日の礼拝

平井克也牧師特別礼拝
聖霊降臨節第21主日 主題「天国に市民権をもつ者」
第一礼拝
 聖書 創世記 3章1-7節
 おはなし 裸だった
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 イザヤ書 5章1-7節
  福音書 ヨハネによる福音書 15章1-10節
 賛美歌 賛美歌21から 533番 471番 ほか
 説教者 平井克也牧師
 説教題 枝としてつながる
 礼拝後の予定 役員懇談会
※コロナ対策のため短縮礼拝です

10月定例役員会・主な審議事項

1)コロナ対策
 9月までの対策を10月11月も継続する
2)特別礼拝の評価・反省  特段なし
3)永眠者記念礼拝について
 昼食の交わりは時節柄開催しないこととして、案内はがき及び案内先を確認した
4)幼児祝福合同礼拝について
 幼稚園には募集をかけないことを確認し、CS生徒を中心に合同で行う
 出席する子どもは全員祝福する
 内容等は次週CS教師会で確定する
5)11月定例役員会について
 例年通り10月25日に開催し、更に11月8日に臨時役員会を開く予定
6)10月18日滝澤牧師の夏休みを承認した
7)その他消息等略

No.707 何が問題なのか…単純なんだけどなぁ

 総理が日本学術会議の会員候補を6人任命しなかったことで物議を醸している。様々な説が入り乱れているのだけれど、市井の一人として感じていることを、この時の空気感を忘れないためにここに綴っておく。
 「首相の任命権」ということが問われている。学術会議が推薦した人を総理が形式的に任命しないという結論だったわけだ。だったら問題は簡単だ。この6人を推薦しなかった理由をハッキリと(「総合的・俯瞰的」などと言わずに)説明すれば済む。だが何故か、それをしない。
 「学術会議も税金を使っている」という。運営のほとんどは事務経費だが、税金を投入する以上その使い道を問うことは正しい。だから財務省なり経産省なり会計検査院が怠りなくチェックすれば良いだけの話。会員の人事と税金とはそもそも関係ない。
 「学術会議のあり方が問題だ」と自民党政調会長が(行政改革の一環だそうだが)言い始めたようだ。これも会議自体の問題性は別に問われれば良いことではないか。「内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立され」ているのだから。あるいは今回推薦されなかった6人が原因で会議に問題があるというのであれば、総理がそのように説明すれば済む。「政府に対する答申や勧告などが過去10年、ほとんど行われていない」のは、むしろ国会が学術会議に問うことをしなかったということで、無為無策を問われるのは国会の方だろう。余談だが、政調会長はご自身に降りかかって今もある疑惑をまず正直に丁寧に説明した方が良いよ。
 というわけで、こういうことこそスピード感が発揮されるべきではないか。言い訳ではなくちゃんと、別に丁寧にじゃなくていいから単純に、説明すべきことを説明すれば良い。そうしたら我々主権者たる国民が、その説明を下に判断を下すのだ。我々の主権をないがしろにしちゃ困るよ。