No.722 思いがけず

 先週「歌謡曲ウィルス」という三上知恵さんの言葉を紹介した。その中に「その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。」と書いたが、その週の半ば、20日の水曜日にこの現象が再発した。それがなんと驚くべき事に(?)その日頭の中を流れたのは聖歌498番歌いつつ歩まん」だったのだ。そして気がついた。この日、つまり2月20日は瀬谷重治牧師の召天日だった(1988年)。
 瀬谷重治は秋田県横手にある秋南教会の牧師。生涯をその教会に捧げ尽くした人。秋南教会は横手中学に英語教師として赴任したM・M・スマイザーによって形作られその働きを受け継いだのが瀬谷。瀬谷は明治学院で神学を学んだので旧教派的には長老派だが、スマイザーの個性かどうか、私が幼少の頃はホーリネス教会のような礼拝だった。だから礼拝や祈祷会では聖歌もたくさん歌った。そんなこんなが心理の奥底にあってか、この日は目覚めた時から(あるいは夢うつつの時から既に)「歌いつつ歩まん」の日だったのだ。
 そういえば母は家事の間よく聖歌や賛美歌の鼻歌を歌っていた。父が病院を退院しその足で施設に入所したので、思いがけず一人暮らしが始まった今もたぶん誰に遠慮もせず鼻歌を歌い続けているのではなかろうか。
 聖歌になじみのない方もおられると思うので、498番の歌詞を記すとこうなる。「主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみもとに 荷を降ろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を」。牧師である者がこんなことを言うのもナンだが、書き写して恥ずかしくなるほど信仰的! ただ正直に告白(?)すると、わたしは間違いなくそういう環境で生まれ育ってきたのは事実なのだ。
 歌詞を読み出したら、瀬谷の歌声まで耳の底に響いてくる。ちょっと低いよく通るハリのある声だった。

1月31日の礼拝

降誕節第6主日 主題「教えるキリスト」
第一礼拝 9:30~9:50
 聖書 ローマの信徒への手紙8章22節
 おはなし 世界が苦しんでいる
 担当 滝澤貢牧師
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書 30章18-21節
  使徒書 テモテへの手紙Ⅰ 4章7-16節
  福音書 マタイによる福音書 5章17-20節
  交読詩編 119編9-16節
 賛美歌 賛美歌21から 55番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 人を押し出す福音
 礼拝後の予定 特になし
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています

1月臨時役員会・審議事項

2度目の緊急事態宣言を受けて教会の対処方針を考える
(1)教会としての対応はこれまでの対応を継続する
(2)第一礼拝は継続するが当面9時30分から開始し、当番の出席は求めない(牧師が行う)
(3)第二礼拝も継続するが、司式・奏楽・受付/献金・礼拝当番の出席を強制しない
(4)LINEライブによる礼拝をこれからも広めていく
(5)これらの対処方針をホームページですぐに広報する

1月24日の礼拝

降誕節第5主日 主題「宣教の開始」
第一礼拝 9:30~9:50
 聖書 使徒言行録14章16-17節
 おはなし 知らない人だって
 担当 滝澤貢牧師
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書8章23b-9章3節
  使徒書 ローマの信徒への手紙1章8-17節
  福音書 マタイによる福音書4章12-17節
  交読詩編 44編2-9節
 賛美歌 賛美歌21から 356番 453番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 悔い改めよ、天の国は近づいた。
 礼拝後の予定 特になし
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています

No.721 歌謡曲ウィルス

懐かしのTBS「ザ・ベストテン」TBSチャンネル2で再放送が始まったらしい

 映画監督の三上智恵さんが神戸新聞にコラムを連載し始めたが、その第一回目がなかなか面白い。要約すると、彼女の頭の中にはいろんな歌謡曲がエンドレスで流れるらしい。これを彼女は「歌謡曲ウィルス」と名付け、まるでヘルペスのように弱ったり暇になったりすると「ムクムクと表出し、どの曲かまわず頭の中にガンガン鳴らす」のだという。
 ガンガンというほどではないが、私もいろんな歌(曲)が頭の中でエンドレスに流れることがある。その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。
 このコラムで面白いのは「このウィルス保持者は、もしかすると昭和のテレビ世代限定かも知れない」という洞察だ。どういうことか。昭和のテレビではいわゆる歌謡番組が多かった。例えばTBSで1978年1月にスタートし、およそ12年間にわたって放送されたザ・ベストテンはその代表かも。毎週ランキングで示され、歌手がスタジオやコンサートライブの会場からその曲を歌った。ジャンルは広く、自分の趣味ではない曲や取り立てて好きではない歌手の歌でも流れるわけで、いつの間にかお門違いの歌のメロディも歌詞もすっかりすり込まれたものだ。そういうバラエティ溢れる様々な曲が、何かの刺激によって頭の中でスパークするわけだ。良くわかる。「今の若者は好きな曲だけ選んで聴くから、われわれのように、たとえ好みは違えど「襟裳岬」は全員歌えるという共通体験がないだろう。」と。
 マツコ・デラックスが同じようなことを言っていた。黒柳徹子さんはベストテンでステキで奇抜な衣装を毎回着ていたが、それが出演者の責任だと語っていたと。「テレビが元気だったステキな時代を生きてきたのよ」って。
 マスメディアの存在意義が厳しく問われている。「お茶の間」が消滅した今、テレビももはや古いメディアなのか。淋しくもあり淋しくもあり。

No.720 「させていただいている」という逃げ

 「川崎教会の牧師をさせていただいている滝澤です。」。唐突だが、このようにわたしが自己紹介したら、皆さんはどう思われるだろうか。問題は「させていただいている」という表現だ。
 日本基督教団で牧師になるために受けなければならない「教師検定試験」には文字通り神学に関するテストもあるが、根底で問われているのは知識ではなく「召命感」のようだ。牧師として立つということは神から召されているという信仰無くしてあり得ない(?)から。だから「牧師」とは「神が立てた」のだという意味で「(神に)させていただいている」という思いが含まれるのかも知れない。だがわたしは絶対に「させていただいている」とは言わないだろう。わたしなら「川崎教会牧師の滝澤です」と言うに違いない。
 この「させていただいている」という表現を、近年頓に目にし耳にする。この表現のキモは相手の許可があるかどうか、許可が必要かどうか。まぁギリギリ牧師は勝手には出来ないわけで、神の許可(?)あってのものだが、でも結局自分がやりたかったのだろう。あるいはそれしか出来なかったのだ。その現状の責任を「神」のせいには出来ないはず。信徒や教会に迷惑をかけ続ける牧師がいたとして、「それは任命した神が悪い」なんて論理にはならない。悪いのは神ではなくそいつだ。職務は委ねられたものだ。だがその職務を遂行するのはあくまでわたしだ。だから責められるとしたらわたしが負わなければなるまい。その覚悟があるなら「させていただいている」なんて言う逃げは卑怯だ。
 二度目の緊急事態宣言の会見で1分に1回「思います」を連発する首相もどうかと思うよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきたいと思います。」ってナニ? 最悪。リーダーならせめてこう言おうよ。「改めてコロナ対策の強化を図っていきます。」ってさぁ。やるのは君だろう??

1月17日の礼拝

降誕節第4主日 主題「最初の弟子たち」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 イザヤ書45章12節
 おはなし 手造り
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 エゼキエル書2章1-3章4節
  使徒書 ヨハネの黙示録10章8-11節
  福音書 マタイによる福音書4章18-25節
  交読詩編 40編6-12節
 賛美歌 賛美歌21から 402番 516番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 人を用いる
 礼拝後の予定 ぶどうの会・役員牧師館内覧
※コロナ対策のため短縮礼拝です

1月定例役員会・主な審議事項

(1)1~2月コロナ対策について
 現在の対策以上に出来ることはないので継続するが、緊急事態宣言が発令される/された時は臨時役員会を開催して対応を検討する
(2)牧師招聘手順
 牧師館の修繕に関して、大工の高井さんと一緒に17日礼拝後にチェックする
(3)年末年始の教会行事についての評価・反省
 特別なことは何もしなかったが、礼拝が出来たことを感謝
 クリスマス礼拝に48名、イヴ礼拝に20名参加
(4)その他消息等略