| 聖霊降臨節第13主日 主題「神からの真理」 |
| 平和月間 |
| 第一礼拝 夏休み中 |
| 聖書 |
| おはなし |
| 担当 |
| 第二礼拝 10:30~11:45 |
| 聖書 |
| 預言書 ヨブ記 28章12-28節 |
| 使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章11-3章9節 |
| 福音書 ヨハネによる福音書 7章40-52節 |
| 賛美歌 賛美歌21から 57番 61番 ほか |
| 説教者 小林充牧師 |
| 説教題 メシアはガリラヤから出るだろうか |
| 礼拝後の予定 なし |
| ※コロナ対策のため短縮礼拝です |
No.698 鐘の鳴り響く朝
今年も8月6日朝、お向かいの教安寺さんの鐘が鳴った。広島への原爆投下時刻8時15分から1分間、この鐘は鳴り続ける。
その後広島市長によって「平和宣言」が読み上げられ、続いて子ども代表の「平和への誓い」がある。だいたいここまでは毎年テレビで観るのが習慣。
ある時、「今は未だ平和ではないし、21世紀が平和の世紀となることも夢で終わった。なのにどうして平和が『宣言』されるのだろう」と思った。そこで広島市のホームページを調べてみた。そこには「平和宣言」の歴史的経緯が記されている。
広島市が世界初の原爆の犠牲になって2年後、「永遠の平和を確立しようという広島市民の願いを全世界の人々に伝え、世界的行事の一つにまで発展させたいと念願して、平和祭が」8月5日から3日間行われ、「6日には現在の平和記念公園の広場で式典が開かれ、この中で初めての平和宣言が浜井信三市長によって読み上げられ」たという。その宣言には「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた」とあった。世界中の誰もがこの兵器の恐ろしさを知り、平和を希求せずにはいられなくなった故に、逆説的に原爆の落とされた悲惨な出来事が平和をもたらした、という意図だと思った。流布しているような、「太平洋戦争を早く終わらせた」故にではなく、逆説的にわたしたちが平和へと目ざめた故に、だ(以上、「 」は広島市ホームページより引用)。
しかし残念ながら「思想革命」は全世界の隅々までは行き渡らなかった。いつでもカネが命より上にあった。そして戦争がカネを生む構造は保たれた。だがだからこそわたしたちは今も逆説的に平和を宣言し続ける義務があるのだと思う。呑気だという人は言えばよい。お花畑だと言うならそうかも知れぬ。だがカネのためにこの命を奪われたくはない。誰の命も消費されたくない。
寺の鐘の音を聞きながら、改めて強く思った。
8月16日の礼拝
| 聖霊降臨節第12主日 主題「信仰による勝利」 |
| 平和月間 |
| 第一礼拝 夏休み中 |
| 聖書 |
| おはなし |
| 担当 |
| 第二礼拝 10:30~11:45 |
| 聖書 |
| 預言書 士師記 6章36-40節 |
| 使徒書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-5節 |
| 福音書 ヨハネによる福音書 7章1-17節 |
| 賛美歌 賛美歌21から 499番 485番 ほか |
| 説教者 滝澤貢牧師 |
| 礼拝後の予定 なし |
| ※コロナ対策のため短縮礼拝です |
【8月定例役員会・主な審議事項】
| 1)コロナ対策8-9月の教会について |
| 礼拝参加時は検温を済ませ、受付でも検温する |
| 短縮礼拝とし、何も持たないで礼拝する |
| 出席者全員の住所等連絡先を把握する |
| 2)平和聖日礼拝の評価・反省について |
| 特記事項なし |
| 3)平和月間集会について |
| こころの時代「人から人へ」を鑑賞する |
| 4)その他消息等略 |
No.697 5ヶ月を二千年のごとく
先週の礼拝で献金奉仕者が「7月最後の日曜日」と祈られ、改めて「おぉ、7月も終わりかぁ」と思った。
そんなことを思うなんて、漫然と日々を過ごしてきたような後ろめたさがある。だが、今年は確かにこれまでとは違う。
新型感染症に怯える日々も早5ヶ月、加えて今年はいつまでも梅雨が明けず、毎日雨が降り続き太陽もろくに見ていないこともあって、「7月終わり・夏まっ盛り」という気分に全く浸っていない。
メンタルがそんなに強くも弱くもないけ私だけれど、こうして羅列してしまうと気が滅入りそうでもある。だから努めて微かな光や希望を発見しても来た。目に見えないウィルスがこの時代に何かをこじ開けた先に何かが始まることを──それはもちろん「良い」ことばかりではないのは覚悟しつつも──やはり期待したいのだ。
川崎教会もさまざまな人にこの「週報」を送っているのだが、そのお返しにいろいろなところの週報や機関紙が送られても来る。そしてどこも、やはり苦労の5ヶ月だったのだと思わされてもいる。いずこも「十分に準備期間をおいて、試運転も繰り返し、その評価の下で新しいことに踏み出した」なんてことではなく、日々の差し迫った事態に即決する以外ない状態で踏み出しているのだ。迫られての見切り発車。
困ったことである。苦労することである。これまでのことが出来ないし通じないのだ。だけど、不幸ではない。わたしたちはいつだって──つまりこれまでだって──事柄に差し迫られて重い腰を上げ、決断し、しかも十分に顧みる余裕もなく歩んできた。それが「時代を切り開く」ことだった。格好良く華々しいことではない。地道な、そして恥ずかしいことも多々あった。
二千年の教会の歴史は、それを教えてくれているのではないかな。
8月9日の礼拝
| 聖霊降臨節第11主日 主題「命の糧」 |
| 平和月間 |
| 第一礼拝 夏休み中 |
| 聖書 |
| おはなし |
| 担当 |
| 第二礼拝 10:30~11:45 |
| 聖書 |
| 預言書 箴言 9章1-11節 |
| 使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23-29節 |
| 福音書 ヨハネによる福音書 6章41-59節 |
| 賛美歌 賛美歌21から 499番 419番 ほか |
| 説教者 滝澤貢牧師 |
| 礼拝後の予定 平和月間集会(ビデオ鑑賞50分) |
No.696 サンマが教えてくれたこと

北海道釧路の市場に今年のサンマ初水揚げがあったというニュースを見た。30年以上前仙台でひと夏の伝道実習をした時、8月末に終わる実習に間に合うかどうかというタイミングで、残念ながら初サンマを食べられなかった思い出がよみがえって、「今年は少し早いのかなぁ」などと思った。だが、ニュースの驚きはそこではなかった。
初水揚げされたサンマは全部で197匹だという。重さにして20.9キロ。例年より5日ほど遅く量も去年の半分以下。取引はキロ辺り38,000円とこれまでの最高値。スーパーでは「一尾6,000円」の値札がついていたのだ。
折しも「土用の丑」の話題が出始めた頃、ちょっとした国産ウナギの倍もするサンマに出会うことがあろうとは、思いもしなかった。
記録的不漁だった2019年の半分以下と聞くと乱獲や異常気象を嘆くほかない。ところが7月20日の北海道新聞夕刊にこんな記事が載った。「漁獲量最低更新の理由」。水産資源管理学・鯨類学が専門の北大大学院松石隆教授の記名記事。抜粋すると「漁師が乱獲して、海の中の魚の量が3割になったというわけでは決してない。実は減ったのは魚の数ではなく、漁師の数である。…漁師の数が3割に減ったので、漁獲量も3割になったという計算である。」。
先日NHK「こころの時代」に東八幡キリスト教会の奥田知志牧師が出演された。「創世記では人間が一番最後につくられた。必要なものが備えられて初めて人間は暮らしていける。人が人を支え合ってはじめて暮らしは成り立つ。」というようなことを話されていた。そしてコロナは、それまでに隠されていた人の心──他者との関係を断とうとする──を浮き彫りにしている、と。
漁師が漁をして初めてサンマも食卓に上る。それも直接ではなく、夥しい人とエネルギーが消費されて初めて。見えなかったこと、見ないで来たことの一端を、今年のサンマが教えてくれる。それにしても、高い(>_<)。


