4月19日の礼拝

復活節第2主日 主題「復活顕現(1)」

第一礼拝 現在礼拝休止中です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 出エジプト記15章1−11節
  使徒書 ペトロの手紙Ⅰ 1章3-9節
  福音書 ヨハネによる福音書20章19-31節
  交読詩編 118編13-25節
 賛美歌 賛美歌21から 328番 575番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 なし

イースター礼拝のお知らせ

12日のイースター礼拝は10時30分から、合同で行います。

9:30からの「イースターエッグ作り」は取りやめといたします。

礼拝後の「イースター愛餐会」も中止となります。

大変残念ですが、ご協力をお願いいたします。

No.680 0.1ミクロンがもたらす変化

 唐突なのだが、わたしは小さい頃ほとんど「外食」をした記憶がない。
 父は大工で、一日中体を使って働いたらまっすぐ家に帰ってくる人。わたしの成長と共に彼の酒量も成長していったが、必ず家で夕食──と言うより晩酌かな──をとる。だから3人で外食という思い出が少ない。
 ところがいつの間にかわたしは外食抜きに自分の生活を考えられない。そう自慢(?)できるほど、1週間の生活の中に1回(以上?)は組み込まれている。どうもわたしはそうすることでストレスを発散しているようだ。
 ところが最近は「外出を控えろ」という。専門家会議からの提言も当初は「宴会自粛」だったのが、近頃は「飲みにも行くな」と、小さな、ささやかなストレス発散の機会にも×印が出される。外食に後ろめたさがつきまとう。
 でも、わたしたちはそういうフェーズを迎えているということなのだろう。ウィルスがある日突然気まぐれで自己消滅でもしない限り、わたしたちは長い間このウィルスと共存していかなければならない。もちろんワクチンや治療薬が開発されれば劇的にその脅威を抑え込むことはできる。だがそれと共存する状態はそれでも続いてゆくだろう。大げさな言い方をすれば、生活や文化や風習の方をそういうフェーズに見合ったものにしてゆくことが始まった、ということなのかも知れない。
 「みんなで、集まって」行う礼拝を、違う形に検討する教会もたくさん出始めた。これは単に感染症蔓延のための急場しのぎなのか、あるいはひょっとして「教会観」までも変更する萌芽となるのか、興味がわく。曰く「2千年の歴史」と豪語(!)してきた教界に、突如として現れた強烈な外敵。変えないリスクと変えるリスクのせめぎ合いから、どんなアウフヘーベンが起きるのだろう。
 で、と。今日はどこで呑もうか。家or外? (爆)

4月12日の礼拝

イースター合同の礼拝
復活日 主題「キリストの復活」

合同礼拝 10:30~11:45
 聖書
  福音書 ヨハネによる福音書20章1-18節
 賛美歌 賛美歌21から 328番 311番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 「疑うことも一歩」
 聖餐式執行 配餐 武田直美・酒井一宏
 礼拝後の予定
  ※合同イースター祝会は新型感染症拡大予防のためとりやめます
  ※教会学校は朝9時30分からイースターエッグ作りをします

No.679 可哀想な桜(2年続き)

 19年春の桜は、花冷えが続いたせいか「まだ咲いている」と散々な言われようだった。今思えば昨年の異常気象をあの桜が密かに教えてくれていたような気がする。
 20年の桜は今盛り。だけど今年は可哀想に愛でる人も少なそう。27日には東京都の公園が閉鎖され、有名な上野公園のさくら通りも立ち入りさえ禁止された。宴席の自粛はずいぶん前から通達されていたが、まさか「通るな」までエスカレートするとは。
 そんな中、総理大臣のお連れ合いが芸能人などを含む友人たちと花見をしている写真が出回った。当然ながら予算委員会でこの件について質問が出て、総理大臣は「私的なレストランの庭で撮影したもので問題はない」「(花見自粛といっても)レストランにも行くなとは言っていない」と答えた模様。
 更に食い下がる質問者に「冷静に、その時何について自粛要請が出ていたか知れば、問題ないことも分かる」だそうだ。
 このかたは、本当にコロナウィルスの対策を推進しようというのだろうか。どうもそう思えない。東京オリンピックが中止になっては困るから「今は緊急事態ではない」と言い続け、1年延期が決まったらたちまち、手にした伝家の宝刀(緊急事態宣言=首相にとてつもない強権が与えられる)を抜きたくて抜きたくてしかたない、聞き分けのない子どものようにしか見えない。
 春分の日を含む連休に自粛ムードが解けてしまい感染爆発につながったと専門家もどきは言う。そうかも知れない。だから下々は今日を含む週末の自粛を──しかも週末度に──迫られ、国民性としてわれらはそれを諾々と受ける。だが、とてつもない強権を持つ者たちは、「レストランは例外」「和牛券配るから」「ひょっとしたら魚介券も付けるから」と。
 あまりにもバカにしている。今に桜からしっぺ返しを受けろ!

4月5日の礼拝

復活前第1・しゅろの主日 主題「十字架への道」
第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 ヨハネによる福音書18章28-40節
 おはなし 真理って何?
 担当 黒木恵美子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 創世記22章1-18節
  使徒書 ヘブライ人への手紙10章11-25節
  福音書 ヨハネによる福音書18章28-40節
  交読詩編 64編2-11節
 賛美歌 賛美歌21から 328番 305番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 4月定例役員会

3月29日の礼拝

復活前第2主日 主題「十字架の勝利」

第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 マタイによる福音書27章45-56節
 おはなし 見張りの人たち
 担当 黒木恵美子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書63章1-9節
  使徒書 コロサイの信徒への手紙2章8-15節
  福音書 ヨハネによる福音書12章28-40節
  交読詩編 22編23-32節
 賛美歌 賛美歌21から 302番 509番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 賛美歌を歌う会
  21-328「ハレルヤ、ハレルヤ(たたかいは終わり)」

No.678 振り回されてきた証し

 4月終わりに開催される定期教会総会の「議案・報告書」の原案作りが始まっている。4月第1日曜日の役員会で検討するためだ。
 この資料の中に「年度の歩み」というのがあって、一年間の教会・幼稚園・牧師の関わる外部のことなどの簡単な記録を残している。だいたいは週報に記されている「集会の予告」と「お知らせ」から思い起こして書く。予告はあってもその報告は必ずしもないわけで、「記憶」というのが唯一の情報源だったりする(その意味では今の内閣以上に問題あり!かもね、破棄・改ざんする公文書さえない、ということだから(^^ゞ)。
 振り返ると緊急対応の連続だった一年が見えてくる。台風があった、床上浸水があった、冬なのに例を見ないゲリラ雷雨があった、インフルエンザが蔓延した、新型ウイルスが世界的に流行した……。
 不思議なことに、2月末頃から3月にかけて記憶が飛んでいる。ついさっき、いや「今し方」のことなのに、細かいディテールを思い起こせないのだ。
 特に、「すべての学校に休校措置を求める」という政府発言があったあの夜、たまたま幼稚園の理事会の日で、園長・副園長・主任が揃っていたからそれが出来たのだが、すぐに対応を協議し、翌日一日(2月28日)で3月にやることを全てこなせる見通しを立てた。以後、あらゆるものが自粛・中止になっていった。その一つひとつが「あれ、どうなったんだっけ」と思い出せない。冷静・沈着に判断・決断してきたという自負はあるが、それ以上に自分も振り回され、自分で決めていたつもりでも思いっきり流されっぱなしだったということではないかと、改めて気づいたのだ。
 自分の人生は自分が主人公──、そんな歌に励まされていた。だけど本当はその人生だって数多くの「思いがけない出来事」からつくられている。その上で「自分」という役を(主人公として)演じているのかも知れないな。

3月22日の礼拝

復活前第3主日 主題「香油を注がれた主」

第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 マタイによる福音書27章32-44節
 おはなし 自分のことは救わない
 担当 小沼里枝子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 サムエル記上9章27-10章1,6-7節
  使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅱ1章15-22節
  福音書 ヨハネによる福音書12章1-8節
  交読詩編 2編1-12節
 賛美歌 賛美歌21から 567番 298番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 「わたしはいつも一緒にいるわけではない」
 礼拝後の予定 祈りの会

No.677 自由な心地よさ

 幼稚園の卒園式は、在園生が参列しない形で無事に行われた。とはいえ、いつもなら保育証書をもらう練習を少なくとも1回は行うのだが、今回はぶつけ本番の子どももいる。自分たちの言葉を使った「思い出のアルバム」の替え歌もこれまで1回しか歌っていない。そういう中での式だった。
 そうであれば、綺麗に見栄え良い卒園式ではなかっただろうとの想像はだれでも思いつくだろう。事実様々なハプニングはあったが、でもそれがなんだか良かった。ある程度の緊張感を自分を律するために保つのには意味がある。だがむしろ細かいことが整然と行われるより、自分で考え乗り切る、そして楽しむことができれば、それは最高の舞台に違いない。何より子どもたちは「卒園式」の緊張より、久しぶりに会った友だちと、久しぶりの幼稚園で、最後に思いっきり楽しみたかったし、実際みんなそうしていた。親子で一緒に登園し、「式」と名の付く時間を楽しみ、心にけりがつくまでお庭でみんなと遊ぶ、そこまでの一連の事柄全部が彼らの「卒園式」だったのだと思った。
 この開放感、自由な心地よさを覚えていて欲しい。自由が制限される日が必ず来る。いや、もう既に来ている。その時オトナたちは自分の心を偽り何かと理由をつけて無理矢理納得し、時には立ち塞がる壁になっちゃうだろう。でも子どもたちにはそんな屁理屈は無縁だ。自由な心地よさ、心の底から信頼しあえる仲間と時間、それが適う地面さえあれば、彼らは必要なことを自分で決断し歩んでゆくだろう。その力はどんな壁でも突破するに違いない。
 わたしたち皆がしみじみと「良かったね」を共有しているまさにその時、「緊急事態宣言」さえも発令できるような「新型インフルエンザ対策特別措置法」改正が行われた。十分な科学的データも統計的な積み上げもない中、市民活動が制限されて当たり前のような雰囲気が既に出来上がっている上に、だ。
 子どもなら言うね。「さてどうやって突破しよう。なんだかわくわくする。」