6月21日の礼拝

聖霊降臨節第4主日 主題「信仰の道」
第一礼拝 第二礼拝と合同です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 ハバクク書 2章1-4節
  使徒書 ヨハネの手紙Ⅰ 2章22-29節
  福音書 ヨハネによる福音書 3章22-36節
 賛美歌 賛美歌21から 345番 528番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 なし

【6月定例役員会・主な審議事項】

(1)エレベーター補修工事について
 ジャパンエレベーターの担当者に同席いただき説明を受けた結果、必要最小限の補修工事を行うこととした
(2)コロナ対策に伴う6月以降の教会について
 現在の礼拝の形式、およびCSとの合同についても、6月末の世情を観て7月以降を決定する
 聖餐式は7月第1より再開する
(3)役員任職式・園長就任式・幼稚園教諭任職式について
 役員任職式および園長就任式は6月14日の礼拝で行い、教師任職式は幼稚園教師の要望を受けて7月12日に行うこととした
(4)学校法人と宗教法人の申し合わせについて
 学校法人理事会小委員会提案の申し合わせ事項を確認し、了承した
(5)イースター・ペンテコステ礼拝の評価・反省
 とにかく礼拝が出来たことを感謝する
 LINE配信などの新しい試みは今後も継続する
(6)その他消息等略

No.690 楽しい時間を過ごしてきた

「事件は現場で…」By青島

 戸塚にある日本バプテスト神学校で「実践神学Ⅱ」という連続講座の一コマをいただき、お話をしてきた。
 「バプテスト神学校」は日本バプテスト同盟の学校。当然ながら集まっている学生たちはバプテスト教会から送り出され、遣わされていく先もほとんどバプテスト同盟の教会。
 バプテスト同盟は、川崎教会も所属する日本基督教団新生会と最も近い関係がある。わたしが川崎教会に赴任する前から、川崎教会のクリスマス献金送付先に「バプテスト神学校」があった。それだけ実際にも関わりがあったという証拠だ。ただ、わたしにとっては「献金を送る先」という認識しかなかった。伺うにもとっかかりがなかった。ところが昨年、新生会教師会を川崎で引き受けるにあたって、これをチャンスとばかり新生会として公式にバプテスト神学校を表敬訪問した。以後、様々お誘いいただく度に出かけては関係を深め、ついに神学校の授業に講師として出かけることになったのだった。
 わたしは日本基督教団、それも狭い奥羽教区という範囲で育ち、漸く20年ほどを西中国と神奈川で従事しているだけだ。合同教会で育ち、合同教会で働いているということが、単一教派神学校で学ぶ学生たちにプラスになるのかどうかは分からなかったが、それでも経験を話す以外に語る言葉はない。
 準備を進め、実際に話してみて、改めて浮き彫りになったことがある。教派の違いはもちろん神学的観点での違いではあるのだろうが、実際問題としては「作法」の違いにしか過ぎないことが大多数だということ。そして教会で牧師として立つということに教派による違いなど無いということ。あるのは置かれている場。そして、その「場」にどれだけ共感性を保ちながら立ち続けるかが、問われることの全てだ、ということ。
 「事件は現場で起こっている」。踊る大走査線の名言が頭の中を駆け巡った。

No.689 重苦しい空気

 6月に入って、いろいろなことが元に戻ったように再起動し始めた。とは言え、恐怖が完全に去ったわけではないから、なんだか恐る恐るではあるが。
 3・11の後、川崎でもあちこちで「節電」が叫ばれるようになった。外灯は暗くなり、エスカレーターなども早めに運転が終了した。教会の建っている場所は計画停電もほぼなかったが、幼稚園の教職員が住む地域では頻繁に行われたところもあったようだ。だが、いつの間にか通常に戻った。戻るまでどれくらいかかったかは覚えていないが、意識の上ではあっという間に戻ったような気がしている。
 目に見えない放射線のために、川崎を離れた人もいた。ごく少数ではあった。そして幼稚園の通路から基準を超える放射線が測定され、それが川崎市のホームページに掲載されたりもした。一時確かに大騒ぎではあった。だけど今、少なくとも川崎で生活する上で、放射線量とか無駄な電力の使い方がそんなに気にはならなくなった。
 同じように目には見えない、そして確率からすれば放射線よりも遙かに小さい値でしかないコロナウィルスへの対応が、なんだか3・11より厳重であるのが東北人としては引っかかる。雑駁な知識の感覚から言えば、「それは都市部を襲撃したからではないのか」というのが正直な感想。
 コロナの影響を最も強く受けるのは、人の多すぎる都市部だ。もちろんクラスターは都市部ではないところでも発生した。だがそれは一時的な過密によるものでしかない。そういった例外を除けば、首都圏とか関西圏とか、とにかくやたらと人の多い地域が狙われている。それでも都市部で暮らすことを簡単には止められまい。となれば発生が確率的にどんなに少なくても、近似値ゼロならなければこの恐怖は止められないし、恐怖を抱えたままで擬似通常に戻らざるを得ない。それが今充満している空気。重っ苦しい。

6月14日の礼拝

聖霊降臨節第3主日 主題「神の民の誕生」
子どもの日・花の日・合同礼拝
第一礼拝 第二礼拝と合同です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  福音書 マタイによる福音書 6章6-8節
 賛美歌 賛美歌21から 60番 470番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 必要なもの
 礼拝後の予定 CS教師会

6月7日の礼拝

聖霊降臨節第2主日 主題「真理の霊」
第一礼拝 第二礼拝と合同です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書 40章12-17節
  使徒書 テモテへの手紙Ⅰ 6章11-16節
  福音書 ヨハネによる福音書 14章8-17節
  交読詩編 37編23-40節
 賛美歌 賛美歌21から 345番 351番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 6月定例役員会

No.688 閑話休題

 先日Twitterに面白い写真が流れてきた。おそらくミュージシャンらしい。部屋の3面いっぱいにDTM(卓上で音楽を制作する作業のこと)機材やパソコンや楽器が所狭しと並べられていて、ご本人はその下に仰向けになってこう呟いている。「あとないのは才能だけかぁ」。
 吹いた。吹き出した。呟きもさることながら、自分の姿に見えたから。牧師室に入るだけ本棚を入れ込んで、持っている本を何ヶ月もかけて並べた13年前。川崎に引っ越してきて一番最後まで片づかなかったのは牧師室だった。それから13年間、何冊も何冊も買い込んで、もはや土砂災害警戒レベル。注解書だとか神学書だとか、ろくすっぽ読みもしないのに、持っていないとなんとなく不安だったり後ろめたかったりして(ほとんど精神症だな)、結局目を通さない本(で、けっこう高価!)が溜まり続ける状況を見て、わたしもおんなじだと思った。「才能=だけ=」と言い切るには勇気がいるが…。
 ままま、そうだよ。牧師という仕事はたぶん才能でやるものではないことは、なんとなくそう思うよ。神学校入学の時も、教師検定試験を受ける際も、「召命感」を問われたし。神さまがわたしを召し出して、わたしが担うべきこととして──わたしが担える量よりちょっとだけ多めに──この仕事(牧師とか牧会とか)を与えてくださったのだと。だけどだ。「あとないのは才能だけかぁ」みたいな呟きが口をついて出てくるんだよ。
 もちろん、才能がありさえすれば出来るというものでもない。そもそも、人にはその人に十分なタラントが与えられているのだし(「そのタラントじゃ足らんと?」という楽屋オチがあったなぁ)。
 まぁそれでも、「才能」を巡って呟いているうちはまだいいよね。下手したらあの金持ちの若者みたいに「あなたに欠けているものが一つある。」「なんですか?」「信仰!」とか言われるよりはね。