No.706 本能と奇跡

今の我が家の飼い犬
奥が「ぷぅ」手前が「くぅ」

 昔、神学校の寮で犬を飼った。当時通っていた教会に来る子どもが、自分の家で生まれたけれど引き取り手が見つからないので教会バザーに連れてきたところ、何匹かは引き取り手が現れる中、結局夕方まで売れ残った最後の一匹を引き取った。
 私が犬を飼ったのはそれが最初、つまり飼い主初心者だった。一方、犬だって人に育てられることは初めてなわけで、お互いがなんとなく関係を紡いでいった。35年も前は今のような「ペットブーム」ではなかったし、法的にも緩かったのか、あるいは自分が無知なだけだったのか、あるいは神学校の寮が山の中で社会と切り離された環境だったからか、何の制約もなく自由気ままな飼い主と飼い犬だった。
 ある時、どうもこの犬が妊娠したらしい。そして臨月が近づくといつもの場所からいなくなった。数日後、その頃既につかわなくなって廃墟となっていた建物の床下で、2匹の子犬に囲まれて発見される。ちゃんと産後の処理も自分でしたようだった。誰が教えたわけでもなく、誰かを見習ったわけでもなく、本能だけでその一大事業をさらりと成し遂げたのだった。驚いた。
 ある種の極限状態で、この犬にあった本能が急激に目ざめたのだろうか。人間にも眠っている本能があるのだろうか。いつか、何かの機会に、私もその眠っていた本能が発揮されることはあるのだろうか。ドラマのような、小説のようなテーマだ。
 自分の人生。ほぼそんな劇的な場面に出くわすこと、体験することはないだろう。だが、わたしたちは生まれながら人間だ。それは間違いない。人格を持って生まれてくるのだ。だけど、生まれただけで「人間になる」のではない。既に「人間」として生まれてくる、しかし幸せも傷もたっぷり味わうことでだんだんと「人間になる」のだ。それはそれで奇跡ではないか。

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