No.724 ビワの花が、ついに

ビワの花が…
こんな実になる日も近い

 教会建物の西側に小さな花壇スペースがある。ここは不思議な花壇で、どういうわけか時々土が崩れ去る(まさか首都高やJRがトンネルを掘っているわけではあるまい)。教会員の辻さんが園児たちのために胡頽子の鉢植えをくださった時も土の崩落が頻繁だったので、鉢のまま植え込んでいる。それでも胡頽子は元気に花を咲かせ、実をみのらせる。
 7〜8年ほど前に、ビワの苗木をいただいて植えておいた。もう背丈は優に2階の手すりを超えているのだが、一向に花を咲かせない。外階段から手を伸ばしてビワをもいで食べるのを夢見てきたのだが、毎年葉芽しかつかなかったのだ。というのも防府教会で働いていた頃、そこには幼児施設があって(わたしたちが着任した1999年3月で閉園)、庭に築山と飛行機型の遊具があった。閉園後園庭を整理して築山を壊し、遊具の飛行機がついに空を飛んでビワの木の脇に動いた。我が家の子どもたちや近所の友だちがたくさん遊びに来ては飛行機の翼に登ってビワをもいだ。食べ放題。我が家の夕食後のデザートも庭に出てビワというのが風物詩でもあった。このビワは幼児施設の職員が食べて出たタネを植えた(棄てた?)もの。とても美味だった。
 2021年の今年、ついに川崎教会のビワの木にたくさん花が咲いた。梅雨が開けて初夏を迎える頃には美味しい実をみのらせるのではないかと期待がわく。尤もその頃わたしたちはもう川崎にはいないのだけれど。
 この場所、夏にはゴーヤーを植えている。土と相性が良いのかとても良くみのる。また、大葉(青しそ)も時々移植するが、秋の終わり頃まで勢い良く葉を茂らせる。これも相性が良いのに違いない。
 たぶん、人も土との相性が大切なのだろう。もちろん人は知恵ある生きものだから、相性を知恵で獲得も出来るに違いない。そうやって許される限りそこに根を張る。そんな生き方をこれからもしたいものだと思った。

2月7日の礼拝

降誕節第7主日 主題「いやすキリスト」
第一礼拝 9:30~9:50
 聖書 ローマの信徒への手紙8章38-39節
 おはなし 離さない、離れない
 担当 滝澤貢牧師
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 列王記下 5章1-14節
  使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1-12節
  福音書 マタイによる福音書 15章21-31節
  交読詩編 103編1-13節
 賛美歌 賛美歌21から 196番 452番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 弱さの中でこそ
 礼拝後の予定 特になし
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています

No.723 物言えば唇寒し

 やはり総理の頭の中は「自助・自己責任」前提だったのだな。
 27日の参議院予算委員会で、生活に苦しむ人たちへの対策を問われた総理は「政府には最終的に生活保護があり、セーフティーネットを作っていくのが大事」と答え、定額給付金再度給付の気持ちはないことを改めて明言した。求められたのはおそらくもっと実効的な政策だったろうに。
 だが、生活保護を受けるためのハードルは高い。総理流の「まず自助」が出来なくなったら家族親族などの「共助」に責任追求される世界でも類を見ない三親等までこの国ではその責任を負わされているのだ。三親等といえばわたしから見て曾祖父か曾孫、叔父伯母、甥姪だ。ただでさえ少子化・核家族化が進む中、「親族共同体」どころか兄弟関係だって構成員が少なく希薄になっている中、民法上の扶養義務を生活保護申請要件に当てはめる例もたくさん見られるという中で、「最終的に生活保護」が決してセーフティネットにはなりえない事例を挙げるに事欠かない。なのに総理はそこに拘泥する。
 大体、保護を受けなくてもよい状態を自己責任で創り出せるなら問題はない。コロナの影響を受けて収入が激減した人、仕事を失った人、そもそも罹患した人に一体どんな「責任」があったのか。たとえそういう状態になったとしても安心して暮らしを立てられるような政策を施さない政府にこそ「責任」はあるのだし。だが総理の答弁にはそんな思いは欠片も感じられない。
 確かに、主権者たる国民が国家権力の暴走をとどめるためにこそある「憲法」に国民の義務(とにかく「公」に奉公する国民像)をどうしても書き加え改悪したがる人たちの考えそうなことだ。
 これを他山の石としよう。わたしたちだって下手をすれば、あらゆる事をコロナのせいにして逃げることが出来る。普段なら後ろめたいことさえ、これを持ち出せばなんでも許されてしまいそうな今だからこそ。

No.722 思いがけず

 先週「歌謡曲ウィルス」という三上知恵さんの言葉を紹介した。その中に「その日の気分も多少はあるかも知れないが、中には「何故今この曲?、何故今日この曲?」と思うこともしばしば。」と書いたが、その週の半ば、20日の水曜日にこの現象が再発した。それがなんと驚くべき事に(?)その日頭の中を流れたのは聖歌498番歌いつつ歩まん」だったのだ。そして気がついた。この日、つまり2月20日は瀬谷重治牧師の召天日だった(1988年)。
 瀬谷重治は秋田県横手にある秋南教会の牧師。生涯をその教会に捧げ尽くした人。秋南教会は横手中学に英語教師として赴任したM・M・スマイザーによって形作られその働きを受け継いだのが瀬谷。瀬谷は明治学院で神学を学んだので旧教派的には長老派だが、スマイザーの個性かどうか、私が幼少の頃はホーリネス教会のような礼拝だった。だから礼拝や祈祷会では聖歌もたくさん歌った。そんなこんなが心理の奥底にあってか、この日は目覚めた時から(あるいは夢うつつの時から既に)「歌いつつ歩まん」の日だったのだ。
 そういえば母は家事の間よく聖歌や賛美歌の鼻歌を歌っていた。父が病院を退院しその足で施設に入所したので、思いがけず一人暮らしが始まった今もたぶん誰に遠慮もせず鼻歌を歌い続けているのではなかろうか。
 聖歌になじみのない方もおられると思うので、498番の歌詞を記すとこうなる。「主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみもとに 荷を降ろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ!ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を」。牧師である者がこんなことを言うのもナンだが、書き写して恥ずかしくなるほど信仰的! ただ正直に告白(?)すると、わたしは間違いなくそういう環境で生まれ育ってきたのは事実なのだ。
 歌詞を読み出したら、瀬谷の歌声まで耳の底に響いてくる。ちょっと低いよく通るハリのある声だった。

1月31日の礼拝

降誕節第6主日 主題「教えるキリスト」
第一礼拝 9:30~9:50
 聖書 ローマの信徒への手紙8章22節
 おはなし 世界が苦しんでいる
 担当 滝澤貢牧師
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書 30章18-21節
  使徒書 テモテへの手紙Ⅰ 4章7-16節
  福音書 マタイによる福音書 5章17-20節
  交読詩編 119編9-16節
 賛美歌 賛美歌21から 55番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 説教題 人を押し出す福音
 礼拝後の予定 特になし
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています

1月臨時役員会・審議事項

2度目の緊急事態宣言を受けて教会の対処方針を考える
(1)教会としての対応はこれまでの対応を継続する
(2)第一礼拝は継続するが当面9時30分から開始し、当番の出席は求めない(牧師が行う)
(3)第二礼拝も継続するが、司式・奏楽・受付/献金・礼拝当番の出席を強制しない
(4)LINEライブによる礼拝をこれからも広めていく
(5)これらの対処方針をホームページですぐに広報する

1月24日の礼拝

降誕節第5主日 主題「宣教の開始」
第一礼拝 9:30~9:50
 聖書 使徒言行録14章16-17節
 おはなし 知らない人だって
 担当 滝澤貢牧師
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書8章23b-9章3節
  使徒書 ローマの信徒への手紙1章8-17節
  福音書 マタイによる福音書4章12-17節
  交読詩編 44編2-9節
 賛美歌 賛美歌21から 356番 453番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 悔い改めよ、天の国は近づいた。
 礼拝後の予定 特になし
教会役員会策定の【二度目の緊急事態宣言対処方針】に沿って短縮礼拝をおこなっています