6月7日の礼拝

聖霊降臨節第2主日 主題「真理の霊」
第一礼拝 第二礼拝と合同です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書 40章12-17節
  使徒書 テモテへの手紙Ⅰ 6章11-16節
  福音書 ヨハネによる福音書 14章8-17節
  交読詩編 37編23-40節
 賛美歌 賛美歌21から 345番 351番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 6月定例役員会

No.688 閑話休題

 先日Twitterに面白い写真が流れてきた。おそらくミュージシャンらしい。部屋の3面いっぱいにDTM(卓上で音楽を制作する作業のこと)機材やパソコンや楽器が所狭しと並べられていて、ご本人はその下に仰向けになってこう呟いている。「あとないのは才能だけかぁ」。
 吹いた。吹き出した。呟きもさることながら、自分の姿に見えたから。牧師室に入るだけ本棚を入れ込んで、持っている本を何ヶ月もかけて並べた13年前。川崎に引っ越してきて一番最後まで片づかなかったのは牧師室だった。それから13年間、何冊も何冊も買い込んで、もはや土砂災害警戒レベル。注解書だとか神学書だとか、ろくすっぽ読みもしないのに、持っていないとなんとなく不安だったり後ろめたかったりして(ほとんど精神症だな)、結局目を通さない本(で、けっこう高価!)が溜まり続ける状況を見て、わたしもおんなじだと思った。「才能=だけ=」と言い切るには勇気がいるが…。
 ままま、そうだよ。牧師という仕事はたぶん才能でやるものではないことは、なんとなくそう思うよ。神学校入学の時も、教師検定試験を受ける際も、「召命感」を問われたし。神さまがわたしを召し出して、わたしが担うべきこととして──わたしが担える量よりちょっとだけ多めに──この仕事(牧師とか牧会とか)を与えてくださったのだと。だけどだ。「あとないのは才能だけかぁ」みたいな呟きが口をついて出てくるんだよ。
 もちろん、才能がありさえすれば出来るというものでもない。そもそも、人にはその人に十分なタラントが与えられているのだし(「そのタラントじゃ足らんと?」という楽屋オチがあったなぁ)。
 まぁそれでも、「才能」を巡って呟いているうちはまだいいよね。下手したらあの金持ちの若者みたいに「あなたに欠けているものが一つある。」「なんですか?」「信仰!」とか言われるよりはね。

No.687 何を誰が学ぶか

 「余人を持って代えがたい」からと、法解釈を無理矢理変更してまで定年の延長を図られた人が、なんとまぁテンピンの賭けマーシャンで辞職となった。ギャグのような展開。裏を読む様々な憶測が飛び交い、そっちの方が断然面白かったりする。曰く、「もともと本人は辞めたがっていたのではないか」とか、「検察の権威が失墜した」とか、「責任を検察庁に置くことで巻き返しを図った官邸」とか。今は当人への処分が甘すぎるのではないかとか、支払われる6千万とも7千万とも言われる退職金が批判の対象。
 辞職に伴って退職金を満額受け取ることが出来るということは、口止め料以外にないだろうことは誰の目にも明らかすぎる。だから辞めた人から何かを聞き出すことは無理だろう。一方で組織のナンバー2の不祥事を検察は払拭出来るのか。身内に甘すぎる「訓告」という処分しか出来ない検察組織が、本気で信頼回復にをはかるなら、何をするか何が動き出すかにかかるだろう。
 夏の甲子園大会の中止発表を受けて、ある高校の野球部監督が「逆境を生き抜く力を今こそ教える時だ」とインタビューに答えていた。伝える側も「大人が問われる」と。確かに高校野球も教育の一環だ。だが、野球に限らず、人は生きている限り嬉しいことも悲しいことも経験する。予定通りだったり意外だったり、想定外のことだってたくさん。でもそういう経験の度にたとえ打ちひしがれてももう一度立ち上がり歩み始めることこそが生きることそのもの。むしろ球児たちはそれを知っているのではないか。無心に白球を追いかけるのはその表れ。むしろ忘れているのは──そして忘れている故にこそ無責任なのは──大人の側だろう。今は教えるより教わるべきかと。
 一連のことを経てこの国が誰の目にも公正公平で「国際社会において、名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)るようになれるかどうか──残念ながらコロナへの対策としては世界から批判を受けている現状だけどね──。

5月31日の礼拝

聖霊降臨日(ペンテコステ) 主題「聖霊の賜物」
第一礼拝 現在礼拝休止中です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 エゼキエル書 37章1-14節
  使徒書 使徒言行録 2章1-11節
  福音書 ヨハネによる福音書 14章15-27節
  交読詩編 104編24-30節
 賛美歌 賛美歌21から 345番 339番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 なし

5月24日の礼拝

復活節第7主日 主題「キリストの昇天」
第一礼拝 現在礼拝休止中です
 聖書 
 おはなし 
 担当 
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 列王記下 2章1-15節
  使徒書 ヨハネの黙示録 5章6-14節
  福音書 ヨハネによる福音書 7章32-39節
  交読詩編 46編2-12節
 賛美歌 賛美歌21から 335番 404番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 渇いている人は誰でも
 礼拝後の予定 なし

No.686 もし希望が見えるなら

 ネットを使った授業なんてちょっと前までは際もんだと思っていたのだが、こんな社会情勢の中ではそれなりどころかけっこう重要な地位を得始めている。我が家の大学生や専門学校生も授業がネット上で行われるようになった。非常事態宣言が一部で解除され、おかみから「新しい生活様式」まで発表され、「会議はオンライン」「名刺交換はオンライン」などと推奨されてもいるし。
 この地域で言えば川崎小学校も、児童たちのケアに心を割いておられる様子が情報メールなどで伝わってくる。このままでいることも再開することもどちらをとっても厳しい状況だ。
 ただ、「学校に通えない」という状況は今回が初めてのことではない。小中学校でも、あるいは幼稚園でも、そういう事情を持つお子さんはこれまでもいた。そういうお子さんの支援のためのフリースクールもあちこちにある。文科省も「学校だけでなく民間教育施設での学習を支援し、児童生徒の自立を目指すべき」と(2017/4/4)しているし。
 何が言いたいのか。中心に正解があって周縁には問題ばかりがあるというより、現実は逆だったのではないか、ということ。教育環境の話に限ったことではなく、周縁(つまり「ボーダー」)ではずっと前から課題があってその課題に対して地道な取り組みが進められてきているのだろう。何故なら周縁とは「つねにそういう状態にある」ということなのだから。
 新型感染症の対応を巡って明らかになりつつあるのは、「本音と建て前」とか「中央と周縁」とか「陰と陽」とか、兎角2分論的に整理してそれを「合理的」として済ませてきた事柄が、それは単なる問題の先送り、あるいは単に直視しない選択だったのではないかというこの国の・我々のこれまでの姿勢だ。
 そしてもしこの先に希望が沸き起こるとしたら、そういう整理で済ますことこそが問題だったと直視するところから、かも知れない。

【5月定例役員会・主な審議事項】

1)書面表決によって行われた教会総会議案の審議結果を確認し、以下の通り決した。
  ①議案4,5,6,7、8および監査役選出方法については原案の通り可決
  ②役員選挙を開票し、以下の6名を役員とした
    石浦悦子、酒井一宏、松島美一、武田直美、大橋弘美、滝澤理子
  ③教会監査役は松岡信子を選出した
  ④教区総会議員は石浦悦子を選出した
  ⑤地区総会議員は教会員に広く呼びかけることとし、今回は選出しなかった
2)学校法人川崎キリスト教学園の体制について
 滝澤牧師の同川崎頌和幼稚園園長の職を解き現副園長村松真人を園長とすることを教会役員会として了承した
3)コロナウィルス感染防止のために
  ①第一礼拝と教会学校活動は5月いっぱい休止とする
  ②礼拝当番(司式・受付/献金・その他)も欠席することを可能とする
  ③礼拝をLINEライブで送信する
  ④説教の音声を教会ホームページに掲載する
  ⑤その他、種々可能な手立てを試してみる
4)その他消息等略