10月25日の礼拝

降誕前第9主日 主題「創造」
第一礼拝
 聖書 創世記 6章1-8節
 おはなし パートであることを忘れちゃった
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 箴言 8章1、22-31節
  使徒書 ヨハネの黙示録 21章1-4、22-27節
  福音書 マタイによる福音書 10章28-33節
 賛美歌 賛美歌21から 356番 579番 ほか
 説教者 小林充牧師
 説教題 恐れるな
 礼拝後の予定 特になし
※コロナ対策のため短縮礼拝です

No.708 身体性の回復を

 2015年12月、野村総合研究所がイギリス・オックスフォード大学と行った共同研究で「10〜20年後に日本の労働人口の約49%が就いている職業において、AIに代替することが可能との推計結果が得られた」と発表。「約半分の仕事がなくなる」だとか「どの職種がなくなり、どの職種なら生き残る」という分析が多数流れ、騒がれた。

 49%という数字が衝撃的だったことは確かで騒がれた必然もわかる。だけどやはり「人」「コミュニケーション」を全く不要とする職種なんてそんなにないわけだから、衝撃的な数字が現実になるとは思われなくなっていった。

 2020年、コロナの時代になって「がんばるなニッポン」が象徴するライフ・ワークスタイルが始まった。ICTが活用され働き方が変わるのではないかと期待もされたりする。通勤が不要なら環境の良い地方で暮らせるみたいなことがコロナの暗雲漂う中でちょっとした明るい話題にもなっている。

 だけど、5年ほどの期間をおいて引き起こされたこの二つの出来事は、実はとても関連しているように思えてならない。

 リモートでする仕事なんて、それこそAIに代替されるのではないのか。社会全体がコロナの影響を受けているのは事実だが、実はコロナが、やらないこと・やれないことの「口実」に使われているのではないのか。

 ある物流会社のCMコピーに「出来る出来ないの話しはしない。どうやったら出来るのかだけを考える。」というのがある。コロナの時代に「やらないこと・やれないこと」の理由は掃いて捨てるほど溢れている。だが、だからこそ「どうやったら出来るのか」をまず考えなければならないだろう。口実や言い訳にしてはならない。

 宗教はAIに代替出来ない。それはやはり「人」「コミュニケーション」そのものだからだ。身体性──その回復、復権こそ今一番必要に思うのだが。

10月18日の礼拝

平井克也牧師特別礼拝
聖霊降臨節第21主日 主題「天国に市民権をもつ者」
第一礼拝
 聖書 創世記 3章1-7節
 おはなし 裸だった
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 イザヤ書 5章1-7節
  福音書 ヨハネによる福音書 15章1-10節
 賛美歌 賛美歌21から 533番 471番 ほか
 説教者 平井克也牧師
 説教題 枝としてつながる
 礼拝後の予定 役員懇談会
※コロナ対策のため短縮礼拝です

10月定例役員会・主な審議事項

1)コロナ対策
 9月までの対策を10月11月も継続する
2)特別礼拝の評価・反省  特段なし
3)永眠者記念礼拝について
 昼食の交わりは時節柄開催しないこととして、案内はがき及び案内先を確認した
4)幼児祝福合同礼拝について
 幼稚園には募集をかけないことを確認し、CS生徒を中心に合同で行う
 出席する子どもは全員祝福する
 内容等は次週CS教師会で確定する
5)11月定例役員会について
 例年通り10月25日に開催し、更に11月8日に臨時役員会を開く予定
6)10月18日滝澤牧師の夏休みを承認した
7)その他消息等略

No.707 何が問題なのか…単純なんだけどなぁ

 総理が日本学術会議の会員候補を6人任命しなかったことで物議を醸している。様々な説が入り乱れているのだけれど、市井の一人として感じていることを、この時の空気感を忘れないためにここに綴っておく。
 「首相の任命権」ということが問われている。学術会議が推薦した人を総理が形式的に任命しないという結論だったわけだ。だったら問題は簡単だ。この6人を推薦しなかった理由をハッキリと(「総合的・俯瞰的」などと言わずに)説明すれば済む。だが何故か、それをしない。
 「学術会議も税金を使っている」という。運営のほとんどは事務経費だが、税金を投入する以上その使い道を問うことは正しい。だから財務省なり経産省なり会計検査院が怠りなくチェックすれば良いだけの話。会員の人事と税金とはそもそも関係ない。
 「学術会議のあり方が問題だ」と自民党政調会長が(行政改革の一環だそうだが)言い始めたようだ。これも会議自体の問題性は別に問われれば良いことではないか。「内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立され」ているのだから。あるいは今回推薦されなかった6人が原因で会議に問題があるというのであれば、総理がそのように説明すれば済む。「政府に対する答申や勧告などが過去10年、ほとんど行われていない」のは、むしろ国会が学術会議に問うことをしなかったということで、無為無策を問われるのは国会の方だろう。余談だが、政調会長はご自身に降りかかって今もある疑惑をまず正直に丁寧に説明した方が良いよ。
 というわけで、こういうことこそスピード感が発揮されるべきではないか。言い訳ではなくちゃんと、別に丁寧にじゃなくていいから単純に、説明すべきことを説明すれば良い。そうしたら我々主権者たる国民が、その説明を下に判断を下すのだ。我々の主権をないがしろにしちゃ困るよ。

No.706 本能と奇跡

今の我が家の飼い犬
奥が「ぷぅ」手前が「くぅ」

 昔、神学校の寮で犬を飼った。当時通っていた教会に来る子どもが、自分の家で生まれたけれど引き取り手が見つからないので教会バザーに連れてきたところ、何匹かは引き取り手が現れる中、結局夕方まで売れ残った最後の一匹を引き取った。
 私が犬を飼ったのはそれが最初、つまり飼い主初心者だった。一方、犬だって人に育てられることは初めてなわけで、お互いがなんとなく関係を紡いでいった。35年も前は今のような「ペットブーム」ではなかったし、法的にも緩かったのか、あるいは自分が無知なだけだったのか、あるいは神学校の寮が山の中で社会と切り離された環境だったからか、何の制約もなく自由気ままな飼い主と飼い犬だった。
 ある時、どうもこの犬が妊娠したらしい。そして臨月が近づくといつもの場所からいなくなった。数日後、その頃既につかわなくなって廃墟となっていた建物の床下で、2匹の子犬に囲まれて発見される。ちゃんと産後の処理も自分でしたようだった。誰が教えたわけでもなく、誰かを見習ったわけでもなく、本能だけでその一大事業をさらりと成し遂げたのだった。驚いた。
 ある種の極限状態で、この犬にあった本能が急激に目ざめたのだろうか。人間にも眠っている本能があるのだろうか。いつか、何かの機会に、私もその眠っていた本能が発揮されることはあるのだろうか。ドラマのような、小説のようなテーマだ。
 自分の人生。ほぼそんな劇的な場面に出くわすこと、体験することはないだろう。だが、わたしたちは生まれながら人間だ。それは間違いない。人格を持って生まれてくるのだ。だけど、生まれただけで「人間になる」のではない。既に「人間」として生まれてくる、しかし幸せも傷もたっぷり味わうことでだんだんと「人間になる」のだ。それはそれで奇跡ではないか。

10月11日の礼拝

聖霊降臨節第19主日 主題「永遠の住み家」
第一礼拝
 聖書 創世記 2章7-9節
 おはなし パートナー 
 担当 武田直美
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  預言書 ダニエル 12章1-4節
  使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章1-10節
  福音書 ヨハネによる福音書 11章1-16節
 賛美歌 賛美歌21から 576番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 CS教師会
※コロナ対策のため短縮礼拝です