No.664 便利を再考できるかな

 クリスマスが近づくと、教会でもさまざまな品物の手配が増える。以前は足を運んで買い物をしていたのだが、今その殆どがネットショップ頼み。パソコンの画面で欲しい商品の細かな希望がほぼ叶ってしまっては、あの店この店と車を走らせ足を運ぶことが苦痛になってしまう。
 便利になるということは確かにうれしい。でも便利になるということは、「便利」というシステムが整備されて初めて叶うことでもある。そして今のところ「便利」というシステムのボトムエンドは「人力」から逃れられない。
 ということは、わたしは「便利」というモノを買うことになるわけだが、その「便利」のために、誰かがモーレツに働かなければならないということでもある。それが働きに見合うだけの補償、つまりペイされれば良いのかも知れないが、ボトムは大体搾取の対象というのが経済の原理だろう。
 そのシステムが実際誰の目にも明らかに見えるのがコンビニなのかも知れない。店主が挙って「元旦スト」と明言した。知らなかったが、たとえ個人商店であったとしても、休業するためには本部の許可がいるのだとか。だから挙って声をあげる必要があったのだ。
 かつては3が日ぐらいは街が静かだった。初詣の名所はしかたないにしても。松の内は休むという風習もうっすら覚えている。それがいつの間にか初売りが3日になり、2日になり、元日になり…。飛ぶ鳥を落とす勢いだった(そして実際百貨店を凌いだ)コンビニチェーンにも、人手不足という台風が吹き荒れ、開きたくても開けない現実が押し寄せている。
 ネットショップも、最後はその商品を誰が運ぶかにかかるわけで、わたしが店から店へ足を運ばない代わりに誰かが我が家まで足を運んで商品も運んでくれる。有難いよね。でもただ「有難いよね」で済まして良いのかどうか、わたし自身も答えを探しあぐねているのだけど。

12月22日の礼拝

12月22日 クリスマス合同の礼拝
降誕前第1主日 主題「告知」
アドヴェント第四主日

合同礼拝 10:30~11:45
 聖書
  福音書 マタイによる福音書2章1-12節
 賛美歌 賛美歌21から 269番 262番 ほか
 説教者 「東の国から」
 説教題 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定
  合同クリスマス祝会(会費ひとり500円)
  ※一品持ち寄りが出来る方はご協力ください
  ※教会からホットドッグ、CSからフルーツポンチが出ます
  ※食べたあとはお楽しみのプログラム満載
  ※14時までには解散予定です

【12月定例役員会・主な審議事項】

(1)クリスマス・年末年始教会行事について
 奉仕者へのプレゼントを用意する
 地区新年礼拝は元住吉教会
 新年礼拝(5日)から頌栄の賛美歌を変更する
(2)クリスマス献金について
 特別なお願い状は出さないが、クリスマス案内ハガキに献金袋を添付する
 本日中に欠席者全員に発送する
(3)ギデオン協会メッセージ
 8日礼拝後、2名のメンバーが礼拝から参加する
(4)週報の発送で幼稚園の浸水被害について記したところ、数名から御見舞の献金があった
 教会として受けて、全額を幼稚園に支出する
(5)その他消息等略

12月15日の礼拝

降誕前第2主日 主題「先駆者」
アドヴェント第三主日

第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 新約マタイによる福音書1章18-24節
 おはなし 「インマヌエル」
 担当 黒木恵美子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 マラキ書3:19-24
  使徒書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1-5節
  福音書 ヨハネによる福音書1章19-28
  交読詩編 19編8-15節
 賛美歌 賛美歌21から 230番 234番 ほか
 説教題 「主の道をまっすぐにせよ」
 説教者 小林充牧師
 礼拝後の予定 ぶどうの会(女性のあつまり)

No.663 喜びも悲しみも

 「もちろん、凡そ人間が動かされる動機というものは、自分自身でも単純に割わりきれるものではない。われわれは「召命」ということばで片付けるきらいがあるが、このことばの中には(中略)その人固有の生活史の中で、無数の出会い、無数の喜びや悩みの体験を通して形を成してゆく一つの御意(みこころ)への認識と人間的な意志や感情が折り重なっている。(中略)その中には、多くの極めて人間的な苦悩や喜び、涙や怒りの結実が含まれていることを忘れてはならない。」。東京基督教大学で図書館司書をしている学友がFacebookを通じて教えてくれたのが「医学と福音」1986年8月号(38巻7号)にある中村哲さんの一文「召命と出会い、そしてペシャワールから」。その抜粋をしてみた。
 アドヴェントはキリスト降誕の事実を噛みしめつつ備えて待つ期節なのだろう。例えば未婚の若い女性が突然妊娠を告げられ、それが神の御心だと天使が迫る時、彼女が「お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)と言う時、あるいはいいなずけのヨセフにその事実が告げられ煩悶するさなかに天使が御心を告げると「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1:24)たその決断が、わたしたちが気軽(?)に使う「召命」という言葉で片付けられるだろうか。そんなことはない。幾重にも折り重なった人間の心の営みと、それに対する神の迫りとの狭間で、結実していった事柄なのだ。そう考えたら単に「うれしい/たのしい/クリスマス」にはならない。にもかかわらず、いやそれゆえに、この世に救い主がお生まれになる意味の深さ/重さからこそ、アメージングな喜びに静かに満たされるのだろう。
 金曜日夕方には農村伝道神学校で「ブルークリスマス礼拝──心の痛みを抱えた人のためのクリスマス──」が行われた。本当に様々な人が、今、この時を一緒に生きている。喜びも悲しみも、み翼のかげにと祈る。

12月8日の礼拝

降誕前第3主日 主題「旧約における神の言」
アドヴェント第二主日

第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 新約マタイによる福音書1章1-17節
 おはなし 「りっぱな人ばかりじゃない」
 担当 梅﨑芙美子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 列王記上22章6-17節
  使徒書 ペトロの手紙Ⅱ 1章19-2章3節
  福音書 ヨハネによる福音書5章36-47節
  交読詩編 147編12−20節
 賛美歌 賛美歌21から 232番 243番 ほか
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定
  国際ギデオン協会メッセージ・CS教師会

No.662 平和の器

 「勇気が必要なのは、意見をまくしたてて攻撃的になることなく、別の道を見つけるためです。」。バチカン史上初のイエズス会出身、初のラテン・アメリカ出身の教皇フランシスコの来日は大きなニュースだった。滞在中毎日ほぼトップで動向が伝えられた。わたしも「『幸福』と『人生の意味』について」というタイトルの教皇の本を読んでみた。その中の一節が冒頭の言葉。
 25日に東京ドームで5万人がミサに与ったという。その前後いろんな人から「先生は行かないのか?」と尋ねられた。むしろ川崎でいつもとおんなじように仕事している方が不思議だったり奇異に見えたのだろう。「ま、オトナの事情があってね」とはぐらかした。
 尤もフランシスコ教皇は「オトナの事情」による平和への妨げを最も警戒しろと言うに違いない。長崎で教皇は「聖フランチェスコの祈り」を引用したという。私たちの第一礼拝でも毎週祈られている。それは「わたしを平和の器とならせてください」という言葉で始まる。大所・高所からの「平和」ではなく、わたしが用いられるわたしの周囲からの平和がいつか世界を変える。だから、わたしを器にという祈り。
 結局わたしたちは「オトナの事情」という極めて便利な言葉で自分自身をいつも正当化出来る。あるいは逆に、そんな「オトナの事情」を打ちやぶるためにはもっと力が必要だと思ってしまう。それに見比べれば自分の持つたった1票の投票権なんて小さすぎて無意味だと絶望さえしてしまう。
 だが教皇は「勇気が必要なのは闘うためであり、必ずしも勝つためではありません。」(前掲書)と言う。攻撃的な力を持つ必要はない。打ち負かす必要もない。別の道を見つけるために、今いるところから立ち上がる勇気があれば良いのだ、と。
 使い古された「グローカル」。再びいのちを吹き込まれたようだった。

クリスマスのご挨拶

12月22日 クリスマス合同の礼拝
降誕前第1主日 主題「告知」
アドヴェント第四主日

合同礼拝 10:30~11:45
 聖書
  福音書 マタイによる福音書2章1-12節
 賛美歌 賛美歌21から 269番 262番 ほか
 説教題 「東の国から」
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定
  合同クリスマス祝会(会費ひとり500円)
  ※一品持ち寄りが出来る方はご協力ください
  ※教会からホットドッグ、CSからフルーツポンチが出ます
  ※食べたあとはお楽しみのプログラム満載
  ※14時までには解散予定です

12月1日の礼拝

降誕前第4主日 主題「主の来臨の希望」
アドヴェント第一主日

第一礼拝 9:00~9:30
 聖書 旧約イザヤ書9章1-6節
 おはなし 「ひかりをみた」
 担当 滝澤理子
第二礼拝 10:30~11:45
 聖書
  旧約聖書 イザヤ書52章1-10節
  使徒書 ローマの信徒への手紙11章13-24節
  福音書 ヨハネによる福音書7章25-31節
  交読詩編 47編2−10節
 賛美歌 賛美歌21から 231番 440番 ほか
 聖餐式 谷戸久美子・松岡信子
 説教者 滝澤貢牧師
 礼拝後の予定 12月定例役員会

No.661 土曜日の休日ってどうよ

 今日は、キリスト教の暦では一年で一番最後の日曜日。終末主日という名前が付いている。そして行事暦として日本基督教団では「収穫感謝日・謝恩日」も併記されている。
 おそらく農業の視点から「収穫感謝」ということばは存在するのだと思う。だが、この国では11月の第4週辺りはもはや収穫がほとんど終了している。「終末主日」ということがわからなかった頃にはこの時期の収穫感謝がどうしても馴染めなかったのだが、「終末主日」との関係で考えると、その意味がなんとなくわかるような気がする。一年の最後の主の日に、この一年のすべてを神様に感謝しようという思いが「終末主日」なのではないか。だから収穫物を神さまの前に持参して感謝の祈りを捧げるのだけれど、農作物はそのシンボルなのであって、本来は「わたし」を捧げること、「わたし」の上に注がれてきた神さまの祝福や導きを思い起こして、改めて神さまに従ってゆこうという決意を感謝のうちに確認することが、この主日の意味なのではないかと思えるのだ。そしてその派生が「謝恩日」。
 そういえば23日(土)は「勤労感謝の日」だそうだ。内閣府の「祝日の一覧」によると「勤労感謝の日」の意味は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のだとか。所謂「ハッピーマンデー」として固定的な休日ではなくなっている日もあるのに、どうして勤労感謝の日は…と、同じようなことを考える人はいるらしく、ネットにはその答えとおぼしき説が挙がっている。一言でいってしまえば休日はいつでもよいが祝日は固定日でなければならないということらしい。尤も昭和2年3月4日勅令第25号「休日ニ關スル件」には11月23日が「新嘗祭」と書かれている。皇室では最も意味のある祭日らしい。その最大にして一世一代のものが「大嘗祭」だとテレビでは盛んに宣伝していたなぁ。あんまり関係ないけど…。