昔、神学校の寮で犬を飼った。当時通っていた教会に来る子どもが、自分の家で生まれたけれど引き取り手が見つからないので教会バザーに連れてきたところ、何匹かは引き取り手が現れる中、結局夕方まで売れ残った最後の一匹を引き取った。
私が犬を飼ったのはそれが最初、つまり飼い主初心者だった。一方、犬だって人に育てられることは初めてなわけで、お互いがなんとなく関係を紡いでいった。35年も前は今のような「ペットブーム」ではなかったし、法的にも緩かったのか、あるいは自分が無知なだけだったのか、あるいは神学校の寮が山の中で社会と切り離された環境だったからか、何の制約もなく自由気ままな飼い主と飼い犬だった。
ある時、どうもこの犬が妊娠したらしい。そして臨月が近づくといつもの場所からいなくなった。数日後、その頃既につかわなくなって廃墟となっていた建物の床下で、2匹の子犬に囲まれて発見される。ちゃんと産後の処理も自分でしたようだった。誰が教えたわけでもなく、誰かを見習ったわけでもなく、本能だけでその一大事業をさらりと成し遂げたのだった。驚いた。
ある種の極限状態で、この犬にあった本能が急激に目ざめたのだろうか。人間にも眠っている本能があるのだろうか。いつか、何かの機会に、私もその眠っていた本能が発揮されることはあるのだろうか。ドラマのような、小説のようなテーマだ。
自分の人生。ほぼそんな劇的な場面に出くわすこと、体験することはないだろう。だが、わたしたちは生まれながら人間だ。それは間違いない。人格を持って生まれてくるのだ。だけど、生まれただけで「人間になる」のではない。既に「人間」として生まれてくる、しかし幸せも傷もたっぷり味わうことでだんだんと「人間になる」のだ。それはそれで奇跡ではないか。
No.705 佐々木正美先生
先日佐々木正美先生の新しい本を手に入れた。主婦の友社の雑誌「Como」で2004年から休刊する17年まで続いた連載「子育て悩み相談」で佐々木先生の回答をまとめたもの。17年といえば先生が亡くなった年。最期までこういう仕事を続けていたのだ。先生らしいではないか。
最初の部分にこんなことが書かれている。「最良の選択をして、目標に向かって努力する。それが良い人生だと、それが幸せなのだと、多くの人は考えています。悪いことではありません。でもその結果、理想と現実が違ったとき「人生は失敗だった」と思うのでしょうか。だとすれば人生は不安だらけです。(中略)人生を限定してしまわないでください。自分の与えられた運命を受け入れて、その中で誠実に生きていけば、最終的には「これで良かったんだ」と思える人生になるのではないでしょうか。」。
不安はいくらでも枝分かれする。どこまでもつきまとう。右を選んだら左にはもう進めないのに、見もしない左を選ばなかったことに不安を感じる。豊かで平和で自由で平等な社会(判定基準は微妙だが…)で、わたしたちは何をしても何を選んでもどこまでも不安につきまとわれている。挙げ句、不安をもたらした自分以外の原因への責任追及に、貴重な人生の多くの時間を費やしたりする。
「自分の与えられた運命を受け入れ」るとは、消極的に響く。しかたないという諦めの響き。だが、佐々木先生はそうは仰らない。自分に与えられた運命こそ、たとえそれがどのようであったとしても天恵なのだと。そう信じ切ったとき、最終的には「これで良かった」と思えるのだ、と。
先生の「子育て悩み相談」にはだから魔法の〆の言葉がある。「大丈夫ですよ、必ずいい子に育ちます」。どれだけ厳しい現実を抱える相談者にも、先生は心からそう言い切る。そう、変えるのは自分の心。自分を受け入れることなのだ。
No.704 マイノリティの極み
新しい内閣総理大臣が指名され、誕生した新内閣支持率は日本経済新聞の世論調査で74%、政権発足時としては過去3番目の高さだったとか。その理由が首相の人柄や安定感なんだと。となると、支持出来ないと思っている私はこの国では1/4。ここでも圧倒的なマイノリティだ。
どうして支持しないのか。そもそも「政権」という存在が私個人の確立にあたっていつでも障壁なのだと認識しているからだ。自分が信託するであろう政党やそれを含むグループが政権を握ったとしてもそれは同じ。支持しているのであればむしろより一層政権の暴走に目を光らせることになるだろう。第2に、選挙とは最善を選択する行為ではなく最悪を避ける行為だと思うからだ。私個人の確立を誰かにお任せはしない。任せて安心などしない。
それにしても、首相初めての記者会見で「国民のために働く内閣」と掲げたのには笑ってしまった。そしてすぐに暗い心持ちになった。なぜか。そもそも政府は国民のために働くものだ。憲法第15条2項に「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とある以上、あまりにも当たり前だ。だから笑ってしまった。だが、ひょっとしたらこの国は、今新総理がそのように言わなければならないのが現実なのかも知れぬ。それを思うと暗い心持ちになってしまった。
読みようによっては新総理は言外に「(これまで)内閣は国民のために働いてこなかった」と言っているのかも知れない。それならば、(それでも)支持はしないが、その言行が一致するかどうか、これからも厳しい目でチェックし続けようと思う。鳴り物入りの「デジタル相」に曰く付きの電通出身者を据えるあたり、既に言行不一致ではないかとの疑いが拭えないが。
秋田県湯沢市は衰退が激しい1万8千弱の地方極小都市。それゆえにこれを上昇の機運にしたいのだろうが、そんなにうまくいくかなぁ。
No.703 今、教会は
長男が八王子で一人暮らしを始めたとき、「ここのメロンパンは美味しい」と駅前の小さなスタンド店舗を教えられた。もう夕暮れ時で、次の日仕事が待っていたために「また今度」と思って買わなかった。その後も何度か八王子に出かける度に立ち寄るのだけど、店休日だったりなんだかタイミングが合わなくて買うことの出来ない「幻のメロンパン」になってしまった。
そしてコロナ禍の春先に訪ねたら、もはや店の看板が取り外されてどう見ても完全撤退した様子だった。ついに、本当に「幻」になってしまった。
この4〜6月期国内総生産速報値は年率換算でマイナス27.8%、リーマン・ショック後の年率マイナス17.8%を軽く超越したというニュースがあった。そんなに気にも留めなかった。だけど確かにこの半年あまり、身の回りで店が突然営業を終え、その後に次の店が入らないままでいることが目立つ。
発表される「倒産件数」は法的手続きがとられたものだけだと聞いた。そうではなく例えば「後継者がいないからこの際店を畳もう」というのは「倒産」件数には入らないのだそう。賃貸店舗は撤退する際には原状復帰するためにも金がかかる。その分を確保して撤退する店のことも聞いた。ギリギリ法的手続きをとらないで済むけれども、実質的には倒産に等しいわけだ。
幼稚園は昨年10月から保育料は各自治体が価格を決めてそれを自治体が支払うようになった。川崎の場合25,700円。幼稚園はこれまでの保育料との差額分を保護者からいただくわけだ。で、3月は総理の鶴の一声で休園となったが保育料は全額いただいた。年度予算で動いているからだ。だが4月5月の休園については上乗せ分は返金した。いってみればそれだけで済んだのだ。
教会はどうか。礼拝出席者数は当初1/3、今は1/2。でも月定献金などはみんな何とか献げてくれている。コロナショックと呼ぶまでではない。
巷は厳しい風が吹き荒れている。では教会は今、何をする?
No.702 自己責任が国の基本
党内派閥をひとつに束ね圧倒的多数を獲得して、どうやら自民党総裁選挙は告示前に当選確実が出たようだ。
菅官房長官。後出しジャンケンのように3人の中ではいちばん後に立候補を表明した。大多数確保が確実になったからだろう。
先日NHKテレビに出演した菅氏は、手書きのパネルをかざして「国の基本は、『自助、共助、公助』だ。」と述べた。そして「自助とは、出来ることは自分でやるということ、それが出来なければ共助つまり家族親族や地域の助けを借りる。それでもだめなら国が責任を持つということ」と解説までしていた。
この「自助・共助・公助」、最近各自治体が精力的に取り組んでいる「地域包括ケアシステム」のいわば標語でもある。だが菅氏が言うこととは少し違う。自分で出来ることをするのは「責任」ではないのだ。そうではなく出来るだけ自分で出来ることをやることでQOLを上げる。そのために家族や地域が見守り支える。国はセーフティネットの網を細かくして必ず助けるという意味。だが菅氏が言うところに従えば、自分で責任を負わなければ国は助けない、という地域包括ケアシステムとは全く別物の発想だ。
これまでも例えば生活保護を受けようとすると「親族がいるのだから、まず親族に助けを求めよ」と言って窓口から追い出されることが頻発していた。小田原で「生保なめるな」ジャンパーが問題になったこと、記憶に新しい。菅氏の言うことが「国の基本」であるということは、この国は徹底して「自己責任」を追求するのだと言ったことと同じだ。
例えばコロナ禍。罹患は自己責任か。毎日繰り返される大本営発表のごときものは、逆に国や地方自治体が有効な施策を打てていない証拠だろう。
罹患者が差別され責任を負わされる、それが国の基本だなんて御免被る。
No.701 辞任
総理大臣が辞任した。健康上の理由で継続を断念したことはさぞかし悔しいことであったろう。その点では同情申し上げるし、今後治療が進み回復されることを祈る。
だが、この総理大臣の実績については全く評価できない。
この方は、小泉首相が北朝鮮を電撃訪問したときに総理の横にいた(官房副長官だった)。だからかも知れないが、拉致問題について問われると「私自身が金委員長と向き合わなければいけないと決意している」と言うだけは言った。だがわたしたちの目にそれが行われているようには全く見えなかった。北方領土問題はどうか。地元山口県長門温泉(中でも高級で有名な旅館)に個人的に招待し、ロシア大統領との親密ぶりをアピールしたが、「最低でも2島」どころかひとつとして戻って来ない。一方で沖縄に対する新基地の押しつけと非情な差別、モリカケ問題やサクラ問題も「丁寧な説明」という言葉とは全く逆で、一言も説明していない。一体わたしたちは何を評価しろと?
「今夜のお月さんはまん丸で雲一つない夜空にくっきり浮かんでいる。お月さんだけ見ていれば悠久の昔から面々と受け継いできた人間の歴史を痛感する。が家に入るとすぐに経験した事のない非常事態が宣言された先の見えない現実の困難さに心が萎える。しかしきちっと生き抜けるにはしっかりするしかない。」これは首相辞任と同じ日に死亡が伝えられた内海桂子師匠のTwitter。ユーモアの中にもピリリと風刺が効いた人柄が短い言葉でも伝わってくる。花王名人劇場で「桂子・好江」の漫才にどれだけ温かく笑わせてもらったことだろう。このツイートも97歳とは思えない。博士でも大臣でもなく、こういう人にこそなりたいものよ。「末は博士か大臣か」という言葉があったことなんて今では誰も信じないのではないか。
そういう世情を彼は固めたのだ。7年、2803日かけてね。
No.700 700回
日々よく通る街並みに「閉店」の看板を見かける。立地の良さそうな場所だったり、地下モールだったりするのに、やはり感染症の影響かななどと思ってしまう。経済を研究熟知しているわけではないので単なる印象だけだが。
「閉店」の看板を見て最初に心に浮かぶのは「あらぁ〜」という感情。それには「ちょっと残念だね」という思いが含まれる。そのくせ、閉店した店の常連ではない、どころか良くて1〜2度訪れた程度。中にはもちろん一度も入ったことのない店も多い。その店の売上げにたった一度も貢献したことはないくせに「閉店」の看板に「あらぁ〜」と感じてしまうのはなぜだろう。
そこに存在したものが無くなってしまうことへの一種の無常感が生まれるのかもしれない。存在しているものは存在し続けるものだと無意識に感じていて、それがある時急に無くなることでイレギュラーへの過剰反応をしてしまう、みたいな。
そうは言いながら、例えばよく通る街並みのくせに「閉店・取り壊し」された途端に、そこに何があったのか思い出せないことも良くある。無常観どころではない。むしろ「無情」と言うべきか。
忘れられてしまうことへの、なんとも表現しがたい恐ろしさをわたしも持っているのかも知れない。だから「無常観」が生じるのであって、それをこともあろうに自分が忘れてしまうことへの罪悪感のごとき「無情意識」を感じてしまうのだろうか。
だからかも知れないが、忘れないためにではなく忘れてしまうから記録しておく、綴っておくという作業が少なくともわたしには必要だ。なんでもメモする人もいるがわたしはそれはしないし出来ない。だが忘れてしまうから今記録する、綴ることは出来るし、やろうと思う。
700回はその連続だ。
No.699 玉音放送
8月15日を川崎教会の週報「今週の予定」欄では「敗戦の日」と記している。
通常カレンダーなどでは「終戦の日」とか「終戦記念日」と呼ぶ方が多いだろうと思う。だがわたしは西中国教区時代に「敗戦の日・追悼と平和を求める集会」という集会名称に衝撃を受け、またその集会のプロデュースにも関わってきて、8月15日を「終戦」ではなく「敗戦」と位置づけることの意味を感じてきていた。だからそのように記し続けている。
8月15日は、いわゆる「玉音放送」が流された日だ。天皇が「ポツダム宣言を受け入れることに決めた」とラジオを通じて国民に伝えた日。だが、文字通り「受け入れることを決めたと伝えた」のであって、実際に宣言が調印されたのは9月2日。従って国際的には太平洋戦争終結(=終戦)の日は9月2日だ。ところが日本においてはこのラジオ放送があった日が「終戦」の日だとされて、わたしも西中国で意識を変えるまではそのまま思っていた。
東京でラジオ放送が始まったのが1925(大正14)年、全国放送になったのが1928(昭和3)年。柳条湖事件勃発が1931年。時系列を並べてみればラジオ放送が軍部プロパガンダとして利用されてきたことが良くわかる。そしてラジオのプロパガンダ放送のお終いが「玉音放送」だったわけだ。
ある日昭和4年生まれの父に「どうして8月15日に玉音放送があることを知ったのか」と尋ねた。答えは簡単。「予告があったから」と。14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われたらしい。で、「内容わかった?」と聞くと、「わかるわけがない。聞き取りにくかったし。だが周囲の大人が悲嘆している様子から察した」と言った。なるほどな話しである。
最後のプロパガンダは結果的に大成功だったのだろう。みんなが8月15日を「終戦」としているのだ。でも本当は中味をこそ伝えたかったに違いない。そこに記されているのは敵国の酷さ。だから「耐え難きを…」なのだと。
No.698 鐘の鳴り響く朝
今年も8月6日朝、お向かいの教安寺さんの鐘が鳴った。広島への原爆投下時刻8時15分から1分間、この鐘は鳴り続ける。
その後広島市長によって「平和宣言」が読み上げられ、続いて子ども代表の「平和への誓い」がある。だいたいここまでは毎年テレビで観るのが習慣。
ある時、「今は未だ平和ではないし、21世紀が平和の世紀となることも夢で終わった。なのにどうして平和が『宣言』されるのだろう」と思った。そこで広島市のホームページを調べてみた。そこには「平和宣言」の歴史的経緯が記されている。
広島市が世界初の原爆の犠牲になって2年後、「永遠の平和を確立しようという広島市民の願いを全世界の人々に伝え、世界的行事の一つにまで発展させたいと念願して、平和祭が」8月5日から3日間行われ、「6日には現在の平和記念公園の広場で式典が開かれ、この中で初めての平和宣言が浜井信三市長によって読み上げられ」たという。その宣言には「この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革命」を招来せしめた」とあった。世界中の誰もがこの兵器の恐ろしさを知り、平和を希求せずにはいられなくなった故に、逆説的に原爆の落とされた悲惨な出来事が平和をもたらした、という意図だと思った。流布しているような、「太平洋戦争を早く終わらせた」故にではなく、逆説的にわたしたちが平和へと目ざめた故に、だ(以上、「 」は広島市ホームページより引用)。
しかし残念ながら「思想革命」は全世界の隅々までは行き渡らなかった。いつでもカネが命より上にあった。そして戦争がカネを生む構造は保たれた。だがだからこそわたしたちは今も逆説的に平和を宣言し続ける義務があるのだと思う。呑気だという人は言えばよい。お花畑だと言うならそうかも知れぬ。だがカネのためにこの命を奪われたくはない。誰の命も消費されたくない。
寺の鐘の音を聞きながら、改めて強く思った。
No.697 5ヶ月を二千年のごとく
先週の礼拝で献金奉仕者が「7月最後の日曜日」と祈られ、改めて「おぉ、7月も終わりかぁ」と思った。
そんなことを思うなんて、漫然と日々を過ごしてきたような後ろめたさがある。だが、今年は確かにこれまでとは違う。
新型感染症に怯える日々も早5ヶ月、加えて今年はいつまでも梅雨が明けず、毎日雨が降り続き太陽もろくに見ていないこともあって、「7月終わり・夏まっ盛り」という気分に全く浸っていない。
メンタルがそんなに強くも弱くもないけ私だけれど、こうして羅列してしまうと気が滅入りそうでもある。だから努めて微かな光や希望を発見しても来た。目に見えないウィルスがこの時代に何かをこじ開けた先に何かが始まることを──それはもちろん「良い」ことばかりではないのは覚悟しつつも──やはり期待したいのだ。
川崎教会もさまざまな人にこの「週報」を送っているのだが、そのお返しにいろいろなところの週報や機関紙が送られても来る。そしてどこも、やはり苦労の5ヶ月だったのだと思わされてもいる。いずこも「十分に準備期間をおいて、試運転も繰り返し、その評価の下で新しいことに踏み出した」なんてことではなく、日々の差し迫った事態に即決する以外ない状態で踏み出しているのだ。迫られての見切り発車。
困ったことである。苦労することである。これまでのことが出来ないし通じないのだ。だけど、不幸ではない。わたしたちはいつだって──つまりこれまでだって──事柄に差し迫られて重い腰を上げ、決断し、しかも十分に顧みる余裕もなく歩んできた。それが「時代を切り開く」ことだった。格好良く華々しいことではない。地道な、そして恥ずかしいことも多々あった。
二千年の教会の歴史は、それを教えてくれているのではないかな。